考の証

要は健忘録

【積読日記】機能獲得の進化史

 更新をサボり気味だったので、さっと更新して次につなげていきたいと思います。最近は鳩の撃退法を見たり、カイロ大学の本を読んだりしていたのですが、いまいち更新するモチベーションが出てこなかった。モチベーションが出ない、というよりかは感想を出力する気力が湧かなかったという方が正確かもしれない。


 今回は本屋に寄ってイスラム・中東関連の本を1時間近く立ち読みした結果、全く違う分野の本を買ったのでそれを読みました。

 本書では生物の機能(攻撃と防御、遠隔検知、あし、飛行、愛情)に着目して、生物が進化していくときにどのような変化が起こったのかを化石から紐解いている。非常に分かりやすい内容になっている為、読むに際しては特に知識など必要はなく興味があれば十二分に楽しめる内容になっていると感じた。

 攻撃と防御の章では、生命が誕生してからしばらくの間は捕食者が存在しないことから被捕食者が逃走・隠れる必要がなかった一方で、捕食者が登場すると被捕食者はより生存に適した行動を取るようになる。その中でも、海底に潜るという行動が行われることで海底に沈んだままであった栄養が舞い上がり、生命の繁栄に大きく寄与したという話は興味深かった。ナマコのような生物は海底の泥を食べ、有機物を分解して綺麗な砂を吐き出すことが知られているが、被捕食者のいない世界ではそのような生物はいたのだろうか。また、捕食者が現れた始めたのはカンブリア紀以降のことで、硬い組織(殻や牙)が化石として残りやすくなったと言われている。カンブリア紀といえばアノマロカリスなどネットでもよく見る愛らしい姿の生物たちが「カンブリア爆発」という言葉とともに知られているが、近年ではこの言葉があまり使われてなくっているというのに驚いた。というのも、「カンブリア爆発」は生物多様性が爆発的に増大し始めたと考えられていた為に作られた名称ではあるが、化石というものの性質上、硬い組織を持たなかったカンブリア紀以前の生物は化石を残しにくかった。その為、現代の私たちからしたら急に生物多様性が増えたと感じるが、実際は痕跡が残っていないだけであるというのが今の考え方だそうだ。「カンブリア爆発」は今では限定的な意味合いとして「動物の硬組織化の促進」を表している。
 また、こういった本で楽しみの一つは古生物の容姿だろう。本書では古生物の復元イラストが多く挿入されており、図鑑のような楽しみ方もできる。私のお気に入りはカンブロパキコーペである。ネットで容姿は簡単に見られるので調べられるので是非見ていただきたいのだが、この生物は一体どのように生きていたのだろうか、と興味が湧いてくる。他にもヘリコプリオンのような「なぜその容姿になのか?」という疑問の出る生物も多く描かれている。この現代に生きる生物を見慣れている私たちにとっては古生物は不細工でスマートではない印象をどうしても持ってしまうが、それは未来から現代を見た時にも同じことを思うのだろう。そう考えると、今の生物が将来どのような容姿になるのかというテーマも興味深いものだと感じる。

 ここでは取り上げていないが、他章の内容も非常に面白く、化石から得られるわずかな情報を様々な観点から考察し、時には現代の生物の知見を活用しながら古生物がどのように生きていたのかを本書では知ることができる。専門家ではない私たちにとっては想像しかできない領域ではあるが、本書を読むことで更にその想像が膨らみ、かつて地球に存在していた生物に対して思い馳せることができる一冊となっている。

【映画】劇場版 少女☆歌劇 レビュースタァライトの感想

 わかります。

 ……知らんけど。


 Twitterで「スタァライト」をよく見る日が続き、興味が湧いてTV版を見始めたのが7月9日、そしてそのまま劇場版を見たのが11日。さらに2回目の劇場版を本日20日に見に行きました。スタァライト歴11日目の新参者ですが、ちょこちょこと感想を書こうと思います。ちなみにロンドロンドロンドは見てないので今週末に可及的速やかに見る予定です。ご容赦ください。


 TV版1話を見たとき、思わずスタードライバー輝きのタクトを思い出してしまった。学園、謎の異空間、決め台詞、変身、歌。7話の真相ではザメクを手に入れたヘッドが、12話ではザメクを自らと共に封印するスガタを救い出すタクトが見えた。同じようなことを思っていた人がどうやらTwitterに沢山いたので安心した。スタードライバーは名作なのでみんな見てください。

 話が逸れたが、レヴュースタァライトでは大場ななに精神が破壊された。中学までは演劇を満足にできる環境になく、高い倍率を勝ち残った優秀な同級生と作り上げたのが99回聖翔祭のスタァライトであり、彼女にとって初めての舞台。何事も初めてのことは印象深く覚えている一方、それは普通であれば幼く、未熟で拙いものである。舞台少女たちは初めての舞台が特別であっても、彼女たちは経験として今よりも次の舞台を良く出来ることを知っている。だが、大場ななにとっての初めての舞台はそれと比較すればあまりにも完璧で、その思い出は彼女の人生の中でも最高のきらめきを生み出してしまった。それでも、それだけであれば固執することなく次の舞台へ迎えたかもしれない。だが、彼女は大場ななであった。恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見通せる広い視野。舞台経験がなくても聖翔に受かる天性の才。生まれたての舞台少女。それら故に彼女は99回聖翔祭のスタァライトのきらめきに囚われ、固執してしまう。TV版ではひかりや華恋とのレヴュー、純那との交流で舞台少女として前へ進むようになれた一方、劇場版での皆殺しのレヴューに狩りのレヴューでの切腹強要。普段のみんなの場ななからはかけ離れた大場ななの姿は多くの観客の情緒も破壊しているようで、納得の一言しか出てこない。
 また、やはり劇場版でも名乗りの口上が皆とても良かった。そのシーンだけ切り取って延々と見ていたい。特に、狩りのレヴューでの星見純那の「殺してみせろよ、大場なな!」や魂のレヴューでの天堂真矢の「奈落で見上げろ、私がスタァだ!」が気に入っている。あと競演のレヴューでのまひるのメイスの物理攻撃の鈍い音に冷たい目の「大嫌い」は本当に怖かった。物理攻撃系の武器は見た目の迫力が凄い。レヴューの歌詞とひかりを追い詰めていくシチュエーション、ホラー映画でも見せられているかのような感覚だった(切腹強要も大概だが)。

 ところで、TV版では華恋がなぜレヴューを勝ち進めたのか、といった点が若干気になっていた。レヴュー自体、(おそらく)きらめきという不明確な指標で勝敗が決していたような感じがしたこと、愛城華恋の初期キャラから天堂真矢を下せるほどの実力ときらめきを身につけられるのか想像できなかったところがあった(私はウマ娘でやる気低下イベントが起こると「一番のウマ娘目指してるのに、なんだぁその体たらくはよぉ」と思ってしまう人なので判定が無駄に厳しいかもしれない)。だが、劇場版では愛城華恋の人物像の深堀がなされたことで主人公としての愛城華恋の魅力が示されたのはとてもよかった。愛城華恋と神楽ひかりのキャラが深く掘り下げられたことでこの二人のことをもっと好きになった人がきっと沢山いると思う。彼女たちにとって、幼い日の約束、運命がどれほど大切だったかが分かるとTV版の見え方も変わってくる。


 最後に劇場版のストーリーについて考えて見る。TV版は戯曲スタァライトに沿って物語が進む。レヴューを勝ち進んだ神楽ひかりと愛城華恋は塔を登りきったクレールとフローラであり、ひかり(クレール)は華恋(フローラ)を舞台(塔)から落として一人舞台に幽閉される。ここで本来の戯曲スタァライト(99回聖翔祭でのスタァライト)は終わるが、華恋は塔から落ちたフローラは再び塔に登り、クレールを迎えに行く可能性を見出し、見事ひかりを幽閉された舞台から連れ出すことに成功する。
 また、99回聖翔祭に囚われ、その煌めきを追い求める大場ななに対して同じ脚本同じキャストであっても同じ舞台は作れない、舞台少女は日々進化中であり次の舞台をより良いものにするといったことが示唆されている。それに応えるように100回聖翔祭でのスタァライトは前回のものとは大きく異なる脚本で描かれ、そして大成功に終わっている。

 以上のことから、レヴュースタァライトは作中作であるスタァライトとリンクしたストーリーであることが伺える。それでは、劇場版ではどうだろうか?

 劇場版は3年生になった華恋達の姿が描かれている。当然、次のスタァライトを演じる101回聖翔祭も描かれている。実際、この年のスタァライトがどのような内容であったかは直接的に描かれていないが、脚本を書く雨宮は101回聖翔祭のスタァライトは100回よりも良いものにする=100回とは異なる脚本で行うことを宣言している。それでは101回聖翔祭の戯曲スタァライトはどのような内容になったのか。その答えは「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」のストーリーそのものであると考えられる。

 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト(101回聖翔祭の戯曲スタァライト)は、次の舞台に踏み出せずに舞台少女として死を宣告された聖翔99期生(塔に幽閉された女神達)がそれぞれの次の舞台へ踏み出す(塔から降りる=作中での落ちていく描写が相当)物語である。

 劇場版でのレヴューはTV版とは異なってポジションゼロ(主役)を奪い合うものではなかった。だからこそ、TV版ではレヴューが終わる判定であった上掛け(星のボタン)を落としたとしてもレヴューは終わらなかった。劇場版のレヴューは次の舞台へ踏み出す第一歩であるため、そもそも勝敗を決めるのが目的ではないということなのだろう(だから天堂真矢はThis isできなかった)。そして劇場版でポジションゼロの宣言がされたのはひかりと華恋の最後のセリフの後だけである(宣言はそうだったと思う)。これらのことから劇場版ではポジションゼロは舞台中心=主役を指すではなくスタート地点=次の舞台を目指すための出発点を示している。

 そしてこのストーリーは101回聖翔祭での戯曲スタァライトでもある。彼女たちは聖翔での最後の舞台を演じ切り、卒業していく。次の舞台を求めて。

映画「ゴジラvsコング」の感想

 延期されていたが、つい先日公開になったので今日遂に見に行きました。

 物語自体はKoMで最悪な両親喧嘩に巻き込まれたマディソンが引き続き登場し、ネットで陰謀論を唱えながらも悪の企業に自ら潜入する行動力がぶっ壊れたバーニー、ゴジラLOVEが過ぎた父親のせいでゴジラコンプレックスを持つ芹沢蓮、キングコングと話せる少女マイアなどが登場するが、正直人間パートはあんまり面白くなかったので割愛してもよいと思う。人間パートは大きく分けて二つのパートから成っている。一つ目はマディソンがバーニーと共にゴジラ襲撃を受けたアペックス社に潜入して何がゴジラを刺激したのかを探るパート、二つ目は新しいエネルギー源を得るためにキングコングを案内人として地下の巨大空洞を目指すパート。後者のパートについてはゴジラとコングの戦闘や地下空洞の圧倒的な映像のクオリティ、物語の主軸であったことからもあまり不満点はなかったように思える。しかし、前者は陰謀論好きなバーニーとマディソンの謎の会話はあまり面白くなかったが、これはアメリカ現地に住む人であればそういったジョークも伝わるのだろうか。ちなみに会話に挙がっていたのは水道水はフッ素が入っているから洗脳を受けやすい、とかであるが、一体何に洗脳されるのかなどは一切出てこない上に物語にも全く関与しない。彼らの陰謀論好きについては作中で何も関与しないので、無駄なアクセントと言わざるを得ない。彼らに時間を割くぐらいであればあの狂った芹沢博士の息子である芹沢蓮がなぜメカゴジラを求めていたのかを掘り下げてもらった方が良かったと思ってしまった。

 一方で、怪獣バトルのクオリティは滅茶苦茶高く、それだけで大満足だった。GODZILLA、KoM、髑髏島の巨神。全て見たときには「どう考えてもゴジラが強過ぎてコングは太刀打ちできないだろ…」と思っていたが、本編では香港の街をジャングルの様に縦横無尽に動き回り、機動力を生かして巧みな戦闘を見せたコングには驚かされた。人型生物の腕を自由に使えるというのは戦闘において非常に大きなアドバンテージなのだと再認識した。戦闘の場となった香港の街とそこに住む人たちには同情しかないが、ゴジラとコングのカッコよさに免じて許してほしい。
 また、満を持して登場したメカゴジラの戦闘もまたクオリティが高かった。これまでの人類の無力さと打って変わり、ゴジラの模倣に留まらず数々の兵装によってゴジラを圧倒するメカゴジラにはちょっと感動した(実際のところ、メカゴジラは暴走にも等しい状態であり、人類の技術力には余りあるものであるのだが)。ゴジラがムートーにした放射熱線ゲロのシーンをオマージュしたメカゴジラゴジラのシーンがあって少し笑ってしまった(あのときのゴジラは確実に二日酔いのおじさん状態だったのは狙ってやってたんだろうか…)。また、ゴジラに殺されかけてダウンしていたコングが、今死に瀕しているゴジラと共闘してメカゴジラと戦うシーンは王道ストーリーと言えるかもしれないが、やはり王道は面白く熱いから王道なのだということを実感した。

【積読日記】みずほ銀行システム統合、苦闘の19年史 史上最大のITプロジェクト

 最近、みずほ銀行で大規模障害が起こっていたなと思い出して、積読としてため込んでいた本作を読むことにした。それにしても、最近だと思った大規模障害も3ヶ月以上前だったのはちょっとビックリした。

 本著では2011年の東日本大震災で起こった大規模障害を発端としたプロジェクト、あまりに終わらない為にIT業界のサグラダ・ファミリアと揶揄された銀行の基幹システムの開発話が1章、2011年の東日本大震災での大規模障害の実態を2章で、最後にはそもそもなぜこのようなプロジェクトが必要になったのかを第一勧業、富士銀、興銀の合併当時から最初の大規模障害である2002年までを振り返る3章で構成されている。

 私はIT畑の人間ではないため、1章の話は半分も理解できていないので割愛したいと思う。ちょっと驚いたのは2011年当時のみずほ銀行のシステムのプログラムは1億行あるというところだ。確かにメガバンクを支えるシステムのプログラムは膨大だというのは分かるが、流石にその分量には驚かされた。ちなみに2章の話もシステム関連だったので、どういう障害がなぜ起こったのかの解説をただ「へ~」と読んでいるだけだった。日経コンピュータの内容をまとめたものであったおかげか、素人にも分かりやすく書かれていたので面白く読むことは出来ていた。

 2章までの内容であれば特に書く感想もないためにブログに書くか迷っていたところであったが、3章の内容を読んでこれで感想が書けそうだと思った。結局、これらシステムの大規模障害の原因は三銀行の統合のときにリーダーシップ、統合方針の不在によって迷走したことが原因であった。まったく別の業種ではあるが、会社統合を経験した方曰く、統合時にはどちらの会社出身かという雰囲気があった一方、十年ほど経つと統合後に入社した社員も増えるためにそういった垣根もなくなると聞いた。規模は違えど銀行でもそうなんだろうと思っていたが、「統合の際にどの銀行のシステムを中心に据えるのか」という問題に対して、経営陣の中では決めていた一方、それを伝えずに各銀行のシステム担当にどのような方向で統合を進めていくのかを丸投げしてしまったために、各行のマウント合戦になり、当初経営陣で決めていたもので方向を固めた頃には各行の間には大きな溝が生まれていたと本著では述べられている。以降のシステム関連の問題はこの頃の溝が発端になったと言ってもよく、それを作り出したのはITやシステムのことを理解していない、そのうえリーダーシップを発揮できなかった経営陣にあると感じた。本著ではそれを克服した(例えば大規模障害が起こった際、CIOや頭取にすぐに連絡が入るようなシステムを構築したと記載されていた)としていたが、実際は今回の大規模障害ではインターネットニュース経由で頭取は知るというお粗末さを露呈し、その上に18年(本著で扱っているシステム導入時期と重なる)にも大規模障害を起こしており、それを公表していなかったと報道されている。リーダーシップの不在、経営陣の知識不足、事なかれ主義。そういったものは大きな組織であればあるほど社風を変えるのは困難なのだろうか。最近の日経新聞では政府に近く、新しいことに挑戦せずに株価が下がった企業として東芝と同様に扱われていたのも印象に残っている。

 企業の統合に限らず、より小さい規模で言えば部署の統廃合や他部門間でのプロジェクトなど、そういった仕事においても上記の問題というのは起こりうる。他山の石として覚えておきたいものである。

【積読日記】生ける屍の結末

 おそらく去年の今頃だったか、ツイッターか何かで「黒バス脅迫事件の犯人が書いた本がある」という話を聞き、その感想に興味を持った。その頃は確か本屋に行っても売られていなかったため、アマゾンでほしい物リストに入れて終わっていた。そんなこんなでつい先日まで忘れていた訳だが、リストを見返したときにこの存在を思い出した。在庫もありすぐに発送できるということで早速購入し、積む前に読破することができた。そして今このブログに感想を連ねているところである。本そのものは積まなかったが、リストに入っている期間を含めれば実質的な積読であることは間違いない。

 本書は脅迫事件の犯人である渡邊博史氏の獄中手記である。前編は事件前から逮捕までが、後編は冒頭意見陳述から自身の犯行動機の分析と最終意見陳述が書かれており、最後にちょっとした解説を精神科医や本書を出版することになった出版社の編集長らが寄稿している。

 (こういうと不謹慎であることは承知の上だが)前編は犯人から見た事件の真相が描かれているため、ミステリでの犯人の自白を読んでいるかのようで興味深いものがあった。その頃、私はジャンプを読んで黒子のバスケも面白く読んでいた読者の一人であった。しかし、それ以上でも以下でもなく、同人誌を作ることはおろか、買うことすらもしていなかったため、あまりこの事件について深く知っているわけではない。それでも、当時の世間の認識と犯人の視点では当然のことながら相違があることは分かり、未解決事件についてテレビでまことしやかに語る識者というものは(元からしてはいないが)信頼できたものではないなと実感した。これに関しては、一般論としても当てることは不可能に近いのだから特段責めるものではないとも思ってはいる。

 一方で、本書で読むべきは逮捕後以降、著者がなぜ自身がこの犯行に至ったのかを分析した後編にある。裁判が始まった冒頭意見陳述は注目度の高い事件でもあったためニュースにもなっていたが、著者自身でもこのときに述べた犯行動機については当時自身なりにまとめたものであったが、腑に落ちていなかったようだ。それからいくつかの書籍を読み、著者は犯行動機について自身の中で明確な答えを見出し、それを書き連ねた最終意見陳述は確かに一読に値するものであった。ここでは、最も読むのが辛かった部分を引用する。

 自分は誰からも嫌われていると思っていました。
 自分は何かを好きになったり、誰かを愛する資格はないと思っていました。
 自分は努力しても可能性はないと思っていました。
 自分は以上に汚い容姿だと思っていました。
 どうもそれらが間違った思い込みに過ぎなかったと理解した瞬間に、今まで自分の感情を支配していた対人恐怖と対社会恐怖が雲散霧消してしまいました。
(P.274 13~18行)


 私はこの事件の当事者や被害者ではなく、同人誌にも手を出していなかったために全くの第三者である。だから言えることではあると思うが、著書の中で刑期を終えて出所したら自殺すると何度も繰り返し書かれていたが、渡邊博史氏には生きて欲しいと思った。判決を受けたのは2014年、刑期は4年6ヶ月であるため、もう釈放されているはずであるが、もしかしたら今はもう亡くなっているのかもしれない。どうやらそれは裁判中に著者が出会った人たちからも同じようなことを言われているようで、その言葉が届いていたことを願うばかりである。著者はいじめや虐待からいかに逃れるかを生きる方針としていたが、高校時代での父親の死から被虐うつの状態に陥り、勉学に励むことができなかったと述べている。著者自身は自分には何も能力がないと語っていたが、高校自体は地元で一番の高校であったこと、また何よりこの本の最初は明らかに書き慣れていない人の文章であったにもかかわらず、最後にはそれを微塵も感じさせないほどの文を書くにまで至ったことから、それは環境による自己肯定感のなさによるものなのだろうと推測される。

 この本の中で著者は小学校や塾でのいじめや両親からの虐待などから自己愛を育むことや自らを受け入れてくれる場所に恵まれたなかったことを述懐している。それは裁判所で提出した一問一答形式の書証であり、そこから本書に引用されている。同じように自身の過去を詳細に振り返り、それを書面に起こして他者に触れられるようにする行為をしたら私は発狂するかもな、と思いながら読んでいた。著者は度々、自らの感じ方が他人とは大きく異なっていたことを触れていたので、もしかしたらこの作業も辛くなかったかもしれないが、それはそれで遣る瀬なさがある。
 私はこの著者ほど壮絶な人生を送ってきた訳ではないが、思い出したくもない過去というものは存在する。私はそれをただ忘れることで消化してきた。それを思い出すことすらしたくはない。それは自身の心の傷を再び捲り、塩を塗り込む行為に他ならないと思っているからであり、だからこそその話は今まで誰にもしてきたことはない。そのせいか、私自身の人間性というものは根拠のない自己肯定と根拠のない自己否定が絶えず同居している。それは普通のことかもしれない。今の生きづらさは他のことに理由があるのかもしれない。それでも私はこれからの人生もその原因としてもはや風化した過去に求めてしまうのだろう。だからこそ、過去を振り返り、自身を理解し、乗り越えた著者は尊敬に値するのだと思う。こう言えるのも、解説にあった通り、この事件では死傷者が一人も出ていないからだと思う。死傷者が出なかったのはただ運がよかっただけであると述懐されていたが、それを運ではなく著者の善性に求めたいと思ってしまうのは私だけではないと思いたい。

【読書日記】三体Ⅲ 死神永生 上下巻

 この週末はウマ娘を絶ち、25日に発売した三体Ⅲを読んだ。

 三体ⅠとⅡを読んだとき、この物語はこれで終わっていても満点であると感じた。一方で、三体は世界的の評価されている作品であり、この二作の続編を更に書いたという点でⅢの死神永生は首を長くして待っていた一作である。


 これまでの三体ⅠとⅡでは「困難な状況に対して正解を引き当てる」物語であった一方、Ⅲでは「全ての物事に対して失敗を引き続ける」物語で読んでいる最中は結構ストレスのある話運び(ここでいうストレスは面白い、つまらないの軸ではない)であった。それこそ階梯計画は唯一の成功したものといえるが、今作の主人公である程心にとってはこの計画こそが全ての失敗の始まりとも言える。この計画から共に関わっていたトマス・ウェイドは常に正解を引く人物であった一方で、おそらく劇中でも述べられていたように彼が主導したとしても結果は変わらなかったと思われる。それは時代時代における人類の選択が成した結果であり、程心はただその結果を背負わされただけであると言えるからだ。彼女が成した選択は人類がこれまで築いてきた価値観によるもので、大多数の人間は「自分の母親を売春宿に売り払う」ことはできないし、それによって助かることを理解していたとしても受け入れられなかっただろう。そしてそのことを本当に理解した人類とは違い、その選択を成した大多数の人類が終末において取った行動の愚かさは見ていられないものがあるが、こういった感想を抱けるのは当事者ではない読者であるからというのは覚えておく必要があるだろう。この短期間的な視点での選択が長期間的には間違っているという話は最近読んだホモ・サピエンス全史に通ずるものを感じる。その日をよりよく生きていくことを是としたとしてもよくなるとは限らない。ベストな選択肢はベターな選択肢だけを選ぶだけでは決しては辿り着けない。その一方、そういった愚かさの積み重ねを描いた劉慈欣が選んだ結末がその人類の成長を否定せず、それこそが正しい選択であるとしたことも重要だと思う。例え愚かであろうと、失敗を積み重ねようと、他者を想い愛することは決して間違いではない。


 ところで三体はハードSFであるが、その一方でエンタメ的な側面も強く出ている。Ⅰのナノマテリアルによる巨大タンカー切断というのはその象徴である。三体は物語が進むにつれてSFとしての要素が強く反映されている(私は最終的にインターステラーを思い出した)が、それはそれとしてⅢではSF劇の合間にトンデモエンタメが入っていた。智子の日本刀による戦闘描写などその最たる例だろう。智子はアンドロイドであり、レーザー銃などの未来的な武装を使用して良いし、なんなら小型の水滴を出しても良かったはずだ。それなのに智子は2本の日本刀を使って人体解体ショーを行ったが、これは思わず笑ってしまった。何ヶ月かしたらツイッターで智子与太をしていてもおかしくない。忍者的な容姿をしていたこともある上に最後までその姿勢を貫き通していたところを見るに、おそらくこの要素は三体人が人類文化の中でも特にお気に入りだったに違いない。


 さて、今作でも三体人についてはあまり描かれなかった上に、彼らは人類文化を摂取することで嘘や策略を覚えたと言われている。実際に三体人は執剣者変更に伴い暗黒森林抑制のための重力波装置破壊や物理学の基礎理論に関して間違いを含めて伝えたことが描かれている。そのためⅢにおける三体人について知ることは難しく、かなりの領分で読者の想像に委ねられていると思われる。例えば、母星座標送信以降の三体人に関してはかなり不明な点が多い。曲率推進による空間歪みは光速航行が可能であることを全宇宙に知らしめる痕跡である一方、この空間歪みこそが暗黒領域を形成するために必要な要素であることがわかっている。三体人の技術力は地球人類との遭遇以降、線型的な成長速度から指数的なものに変化したと言われていた。また智子と羅輯の問答から三体人はその頃から暗黒領域による全宇宙への安全通知を理論的に理解していたことがわかる。だが彼らは母星や太陽系を支配して暗黒領域に閉ざすことはしなかった。これは推測ではあるが、座標通知時に三体人は理論こそ持っていてもそれを実現するリソースを持っていなかったと思われる。そもそも三体人は母星が三体問題に起因する乱期が外宇宙への進出の動機になっているため、母星を暗黒領域に閉じ込めることはできなかったのだろう。また座標通知以前の記録を辿れば太陽系も暗黒森林攻撃に曝されることが確定しており、暗黒領域形成完了までに暗黒森林攻撃が来ないように祈るのは不確定要素が強く、それを彼らは良しとしなかったとも捉えられる。三体人が曲率推進による外宇宙への進出を第一艦隊、第二艦隊でしていないところを見るに、おそらく大多数の三体人が母星で命を落としたと思われるが、これは地球人類とはかなり異なっている。太陽系侵略という大義名分があったとしても全ての三体人が光速航行の恩恵に与る数は限りがある。それは地球人類のような政治体制では許容できないと思われるため、三体人が人類文化によって価値観や政治体制まで変貌させたというのはおそらく過大に伝えていたのだろう。
 雲天明の3つの物語の意味に関しても、おそらく三体人は理解していたのではないかと思う。暗黒森林理論に基づく暗黒領域は狩人だけでなく他の知的生命体に対する安全通知である。光速航行技術が確立される頃には人類は暗黒領域について理解している。またこれらの技術に対して既に母星を失った三体人にとって何らデメリットを受けない(人類が生き残るという点に対して三体人の思うところはあるかもしれないが)。雲天明が直接的に程心へ話すことは流石に止めるであろうが、物語に紛れて伝えるのは見逃したと捉えれば、それは三体人の羅輯に対する敬意と同じ理解ができると思われる。三体人、実は言うとかなりお人好しな種族として私の中で認知されているのでちょっとこの解釈は歪んでるかもしれない。


 それにしても、本作でⅡのにおいて<自然選択>とともに未来への逃亡をした<藍色空間>が物語において重要な役割を果たしたのは章北海が好きな私にとってとても嬉しい展開であった。<万有引力>よりも劣った戦艦であるにもかかわらず、あの無敵と思われた水滴を打ち破ったのは本当に良かった。四次元空間からの三次元空間への干渉攻撃は反則もいいところで、魔法というよりも神法と呼ぶべきものだろう。この辺りの描写やそれに引き続く二次元化の描写、その後の小宇宙などはインターステラーブラックホールの中を思い起こさせるようなものだった。よくこれを文章に起こそうと思ったなと感心している。



 時間も遅くなってきたので、感想を書くのを打ち切りたいと思う。こう感想を書いていると最初から読みたく直したくなってきた。積んでいる本がたくさんある中、既に読んだ本を読み返すというのはちょっと罪悪感があるが、まあ数年単位で眠っている本もある中で1ヶ月くらい積んでいる時間が伸びるのは大した差はないかもしれない。

プリンセスプリンシパルを1話から劇場版まで1日で駆け抜けた感想

 プリンセスプリンシパル、TLでも胡乱な人たちがよく話していたことだけは覚えていたので、いつか見ようと思っていたけれどなかなか見る機会がなかった。そう思っていたら、モルカーを見る為にYoutubeを開くとバンダイナムコチャンネルで12話を無料公開していることを知ったので見始めたら、なんと劇場公開初日が今日であることを知り、1日で駆け抜けました。

www.youtube.com

 Youtubeでは14日までの無料公開なので、ぜひ見ていない方は上のリンクから見て欲しい。


 大方の感想は今日のツイッターに放流しているので改めて書くことは少ないのだが、多少は被る前提で書いていきたい。

 プリプリの特徴は、まず放映順が時系列順ではないことである(確かハルヒ一期もそうだったと思う)。各話の題名には「Case xx」とあり、これが時系列を表す。プリプリ自体は日常系などではなく通常のストーリーであるため、時系列順でないと混乱するのでは?と思いながら視聴を進めていたが、物語は最低限の説明だけが与えられて進んで行く。逆にこの説明量の少なさによって混乱せずに見られたように思う。この構成の凄さは特に1話にあり、通常は主人公たちの置かれた状況やどういう物語であるかを説明する必要があると思うが、本作では主人公たちスパイが攫って来た亡命希望者にスポットを当て、彼に説明する方法で視聴者にも様々な情報が与えられている。このやり方が非常にスマートで無駄がない。おそらく放映順ではなく時系列順に見ても全く違和感のない演出であったと思う。まあ今日1日で全話を駆け抜け、ろくに考えられていない頭ではなぜこの構成にしたのか、その狙いまでは理解できていないところが本音である。とりあえず、しばらくは色々な情報を追っていきたい。

 構成の話をしたので次は作画の話をしていきたい。本作では全編等して作画が不安定になったことは一度もない。特に作画崩壊という訳でもないが違和感を感じた作画というのをこれまで見てことがあるが、本作では常に整った綺麗な作画で物語が進行していく。またスパイアクションの動きも凄まじい。特にその本領が発揮された5話の十兵衛vsちせ戦ではおそらく数分ではあったと思うが、狭い車内での戦闘であるのにここまで動かすのかと本当に驚いた。この戦闘は作画もすごかったが、戦闘の演出や構成、物語上の意味も含めて本当に良い回であったと思う。5話は何もかもが良かった。ここが本作にハマった瞬間であると思う。早くちせが本領を発揮できる強敵が出てきて欲しいと願う一方、その敵は本当に強過ぎると思うのでご遠慮願いたいとも思ってしまう。

 物語という点ではプリンセスとアンジェの2話の会話シーン、8話を見た後ではその意味が明らかになっていく演出が良かった。そもそも本作は時系列順ではないという縛りがあるため、単話での構成が必須である為にそれぞれの話に載せられる情報量が限られる一方で一話一話でのクオリティの高さも求められている。それでも各話単品で見ても十二分に面白い上に、各話同士の関係性を紐解いて行くと更に面白みが増していく構成。このアニメを作るのに一体どれほどの時間が費やされたのだろうか。もっと各話を見返して情報を整理していきたいが、無料期間中にもう一度見返すことができないのが残念でならない。wikipediaで確認したら、本作の脚本はコードギアスでもおなじみの大河内一楼さんだった。2話の屋根裏部屋で話そうの合図が使われていて「コードギアスだ!」とはしゃいでいたが、これで納得がいった。

 さて、TV版の話をしたので劇場版の話をしたいところではあるが、ちょっと1日で駆け抜けたためにあまり頭が整理されていないのでこの辺りで一旦今回は終わりにする。これから色々情報を集めたりして、もう一回劇場に足を運ぶことがあったらそこで改めて感想を書こうと思う。

p.s. そのうち各話の振り返り感想もここに追記します。

2/12 ほんのちょっとの追記、劇場版感想若干含む。

 本作では敵味方は明確に別れている一方でどちらが正しいか、悪かという視点ではほぼ描かれていないのが意外だった(case22,23あたりの共和国軍部は悪で王国側は利用されていたとも言える)。また敵であるノルマンディ公はプリンセスの伯父と比較的接触しやすい位置におり、地上波最終回で主人公チームは派手にやらかしているので共和国にはもちろん、王国側にも広く知れ渡った存在となったと思われる。ここで、プリンセスの目的は平たく言えば「女王即位による解放と平和」であり、その手段として共和国と取引している。そういったことを考慮すると、将来的に正体を明かした上でのノルマンディ公との取引や王国側への寝返りというのも今後あり得る展開なんだと思う。この辺りの展開に関してはスパイとして、友人として嘘をつくことも出てくると思うが、それは劇場版のビショップの末路とも重なるところもあるため、中々これからの物語が重くなっていくと思った。今のところ一番の嘘つきはプリンセス、次点でアンジェだが、更に嘘を重ねていくポジションはプリンセスだと思うので中々に次回以降が怖いのですが、できれば間隔を上げずにみたいので制作会社には頑張っていただきたい。