考の証

要は健忘録

【映画】劇場版 少女☆歌劇 レビュースタァライトの感想

 わかります。

 ……知らんけど。


 Twitterで「スタァライト」をよく見る日が続き、興味が湧いてTV版を見始めたのが7月9日、そしてそのまま劇場版を見たのが11日。さらに2回目の劇場版を本日20日に見に行きました。スタァライト歴11日目の新参者ですが、ちょこちょこと感想を書こうと思います。ちなみにロンドロンドロンドは見てないので今週末に可及的速やかに見る予定です。ご容赦ください。


 TV版1話を見たとき、思わずスタードライバー輝きのタクトを思い出してしまった。学園、謎の異空間、決め台詞、変身、歌。7話の真相ではザメクを手に入れたヘッドが、12話ではザメクを自らと共に封印するスガタを救い出すタクトが見えた。同じようなことを思っていた人がどうやらTwitterに沢山いたので安心した。スタードライバーは名作なのでみんな見てください。

 話が逸れたが、レヴュースタァライトでは大場ななに精神が破壊された。中学までは演劇を満足にできる環境になく、高い倍率を勝ち残った優秀な同級生と作り上げたのが99回聖翔祭のスタァライトであり、彼女にとって初めての舞台。何事も初めてのことは印象深く覚えている一方、それは普通であれば幼く、未熟で拙いものである。舞台少女たちは初めての舞台が特別であっても、彼女たちは経験として今よりも次の舞台を良く出来ることを知っている。だが、大場ななにとっての初めての舞台はそれと比較すればあまりにも完璧で、その思い出は彼女の人生の中でも最高のきらめきを生み出してしまった。それでも、それだけであれば固執することなく次の舞台へ迎えたかもしれない。だが、彼女は大場ななであった。恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見通せる広い視野。舞台経験がなくても聖翔に受かる天性の才。生まれたての舞台少女。それら故に彼女は99回聖翔祭のスタァライトのきらめきに囚われ、固執してしまう。TV版ではひかりや華恋とのレヴュー、純那との交流で舞台少女として前へ進むようになれた一方、劇場版での皆殺しのレヴューに狩りのレヴューでの切腹強要。普段のみんなの場ななからはかけ離れた大場ななの姿は多くの観客の情緒も破壊しているようで、納得の一言しか出てこない。
 また、やはり劇場版でも名乗りの口上が皆とても良かった。そのシーンだけ切り取って延々と見ていたい。特に、狩りのレヴューでの星見純那の「殺してみせろよ、大場なな!」や魂のレヴューでの天堂真矢の「奈落で見上げろ、私がスタァだ!」が気に入っている。あと競演のレヴューでのまひるのメイスの物理攻撃の鈍い音に冷たい目の「大嫌い」は本当に怖かった。物理攻撃系の武器は見た目の迫力が凄い。レヴューの歌詞とひかりを追い詰めていくシチュエーション、ホラー映画でも見せられているかのような感覚だった(切腹強要も大概だが)。

 ところで、TV版では華恋がなぜレヴューを勝ち進めたのか、といった点が若干気になっていた。レヴュー自体、(おそらく)きらめきという不明確な指標で勝敗が決していたような感じがしたこと、愛城華恋の初期キャラから天堂真矢を下せるほどの実力ときらめきを身につけられるのか想像できなかったところがあった(私はウマ娘でやる気低下イベントが起こると「一番のウマ娘目指してるのに、なんだぁその体たらくはよぉ」と思ってしまう人なので判定が無駄に厳しいかもしれない)。だが、劇場版では愛城華恋の人物像の深堀がなされたことで主人公としての愛城華恋の魅力が示されたのはとてもよかった。愛城華恋と神楽ひかりのキャラが深く掘り下げられたことでこの二人のことをもっと好きになった人がきっと沢山いると思う。彼女たちにとって、幼い日の約束、運命がどれほど大切だったかが分かるとTV版の見え方も変わってくる。


 最後に劇場版のストーリーについて考えて見る。TV版は戯曲スタァライトに沿って物語が進む。レヴューを勝ち進んだ神楽ひかりと愛城華恋は塔を登りきったクレールとフローラであり、ひかり(クレール)は華恋(フローラ)を舞台(塔)から落として一人舞台に幽閉される。ここで本来の戯曲スタァライト(99回聖翔祭でのスタァライト)は終わるが、華恋は塔から落ちたフローラは再び塔に登り、クレールを迎えに行く可能性を見出し、見事ひかりを幽閉された舞台から連れ出すことに成功する。
 また、99回聖翔祭に囚われ、その煌めきを追い求める大場ななに対して同じ脚本同じキャストであっても同じ舞台は作れない、舞台少女は日々進化中であり次の舞台をより良いものにするといったことが示唆されている。それに応えるように100回聖翔祭でのスタァライトは前回のものとは大きく異なる脚本で描かれ、そして大成功に終わっている。

 以上のことから、レヴュースタァライトは作中作であるスタァライトとリンクしたストーリーであることが伺える。それでは、劇場版ではどうだろうか?

 劇場版は3年生になった華恋達の姿が描かれている。当然、次のスタァライトを演じる101回聖翔祭も描かれている。実際、この年のスタァライトがどのような内容であったかは直接的に描かれていないが、脚本を書く雨宮は101回聖翔祭のスタァライトは100回よりも良いものにする=100回とは異なる脚本で行うことを宣言している。それでは101回聖翔祭の戯曲スタァライトはどのような内容になったのか。その答えは「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」のストーリーそのものであると考えられる。

 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト(101回聖翔祭の戯曲スタァライト)は、次の舞台に踏み出せずに舞台少女として死を宣告された聖翔99期生(塔に幽閉された女神達)がそれぞれの次の舞台へ踏み出す(塔から降りる=作中での落ちていく描写が相当)物語である。

 劇場版でのレヴューはTV版とは異なってポジションゼロ(主役)を奪い合うものではなかった。だからこそ、TV版ではレヴューが終わる判定であった上掛け(星のボタン)を落としたとしてもレヴューは終わらなかった。劇場版のレヴューは次の舞台へ踏み出す第一歩であるため、そもそも勝敗を決めるのが目的ではないということなのだろう(だから天堂真矢はThis isできなかった)。そして劇場版でポジションゼロの宣言がされたのはひかりと華恋の最後のセリフの後だけである(宣言はそうだったと思う)。これらのことから劇場版ではポジションゼロは舞台中心=主役を指すではなくスタート地点=次の舞台を目指すための出発点を示している。

 そしてこのストーリーは101回聖翔祭での戯曲スタァライトでもある。彼女たちは聖翔での最後の舞台を演じ切り、卒業していく。次の舞台を求めて。