考の証

要は健忘録

【積読日記】「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略

 このブログ更新も久々になっている。積読自体は細々と消化したりしていなかったりしている。最近では生活に変化があったのに加え、新聞を読んだりビジネススクールの動画で勉強したりと、まじめなことを始めたりして、あまりこれまでやっていたことができなくなってきたところもある。一方で、やはりインプットしたことはアウトプットしないと身につかないということも身に染みているので、今回久々に読んだ本について感想を書いていこうと思う。

 今回は小泉悠著の「帝国ロシアの地政学 勢力圏で読むユーラシア戦略」を読んだ。今年、まさか21世紀に入って19~20世紀前半のような古い価値観の古い戦争が起こると考えていなかったが、本書はこの戦争の起こる前である2019年にロシアに対して鋭い考察をされていると東野篤子教授が紹介しているのを見て興味を持ち、読んでみた次第である。本書を書かれた小泉悠氏は以前からTwitterでよく見かけてはおり、同じ丸の内OLとして勝手に親近感を覚えてはいたが、ウクライナ戦争に関するテレビ番組ではちゃんとしている人なんだと改めて思った。

 本書ではロシアの「境界」について、ロシアという国家がどのような認識をしているのかという話から始まり、本書が書かれた2019年までロシアが起こしてきた事象を解釈している。今日に至るロシアの行動を理解するには、以前読んだ中東政治学入門*1にも通ずるところが、ロシアという国家のアイデンティティ、そして正統性が重要となっている。ロシアは帝政を打倒した後、ソ連として共産主義の旗本にあらゆる民族、国を包摂する同盟国家として長い時を過ごしてきた。そのソ連が崩壊したとき、残されたロシアは広大な土地とそこに住む多数の民族をまとめ上げるアイデンティティを確立することは困難であったとされている。こういった中、ロシアにとっての貴重なアイデンティティの一つが第二次世界大戦での勝利であり、このナチズムという悪に対する勝利という全人類的な貢献を成したという自負はロシアに暮らす人々を結びつける一定の同朋意識を育む効果を果たしている。だが、外敵の勝利の記憶にアイデンティティを依存しているため、ロシアは常に敵を規定しているともいえる。私たちにとってウクライナにナチズムがあるというのは違和感しかない話だが、こういった前提があると理屈としては受け入れることができる。
 また、本書ではロシアのいう「主権国家」についても述べられている。ロシアのいう主権国家というものは自身の力のみで成り立つ国が持っているものであり、政治・軍事同盟に頼る国家はその同盟相手に対して弱い立場に立たざるを得ないため、完全な意味で主権国家として成り立たない。そういった意味で、ロシアは自身が主権を有する政治・軍事的に強い大国であり、旧ソ連諸国はロシアが一定の影響を及ぼす勢力圏であるという認識を持っている。それぞれの国家が強弱問わずに主権を有しているという西側の考えとは異なっており、これが私たちにとってロシアの行動を理解しづらいものとしている。こうした勢力圏があると認識しているロシアにとって、同じスラブ民族であるウクライナベラルーシは他諸国と比べて特別な存在であり、この二ヶ国はロシアの民としてロシアに留めておく必要があると考えている。時折、ニュースでロシアがウクライナの主権を認めていないような発言に驚かされることが度々あったが、本書を読んだことでその理由を納得はしていないがある程度理解できたと思う。
 この他、本書ではこのロシアの主権に関する考え方や勢力圏というロシア独自の認識などを踏まえた上で、ロシアの東西南北の問題について触れている。ウクライナ戦争前後であらゆる国際秩序が変化している今、その中心となっているロシアを理解する上で役立つ一冊である。


 そしてここからは雑感となるが、こういった国家としてのアイデンティティ、正統性というものはほぼ単一民族で陸続きの国境を持たない日本人としては中々考えに至らない部分ではないかと思う。この感覚は以前読んだ中東政治学入門を読んだときも同様に抱いたが、もし戦前に国の象徴として祀り上げられた天皇が太平洋戦争後にGHQによって失われていたら、日本も同様のアイデンティティの構築に苦しむことになっていたのだろう。国家としてのアイデンティティの確立は他国から与えられるものではないし、例え与えられたとしても長続きはしないだろう。アイデンティティや正統性を確立できたとしても、その後国として経済成長できなければ(国民が富まなければ)その体制が長続きしないことは容易に想像できる。また、つい昨年まではグローバリゼーションによって経済的に繋がることが平和を実現する方法であると言われていたが、今年ではそういった建前を無視した国家に私たちは成す術がないというのが分かってしまった。価値観の異なる国でも共に生きていけるという幻想がなくなりつつある今、それでも共に生きていく道を探すのか、どちらかが生き残るまで戦う道を進んでしまうのかを選択しなければならないのだろう。日本、より小さい組織で言えば企業においてダイバーシティインクルージョンを進めていく中、多様性を認めない人間を認めるのかという問題はあまり議論の俎上には上がらないが、こういった身近な議論においても答えを出せないのであれば解決策など出てこないのだろうと少し気が重くなってしまった。