考の証

要は健忘録

【積読日記】生ける屍の結末

 おそらく去年の今頃だったか、ツイッターか何かで「黒バス脅迫事件の犯人が書いた本がある」という話を聞き、その感想に興味を持った。その頃は確か本屋に行っても売られていなかったため、アマゾンでほしい物リストに入れて終わっていた。そんなこんなでつい先日まで忘れていた訳だが、リストを見返したときにこの存在を思い出した。在庫もありすぐに発送できるということで早速購入し、積む前に読破することができた。そして今このブログに感想を連ねているところである。本そのものは積まなかったが、リストに入っている期間を含めれば実質的な積読であることは間違いない。

 本書は脅迫事件の犯人である渡邊博史氏の獄中手記である。前編は事件前から逮捕までが、後編は冒頭意見陳述から自身の犯行動機の分析と最終意見陳述が書かれており、最後にちょっとした解説を精神科医や本書を出版することになった出版社の編集長らが寄稿している。

 (こういうと不謹慎であることは承知の上だが)前編は犯人から見た事件の真相が描かれているため、ミステリでの犯人の自白を読んでいるかのようで興味深いものがあった。その頃、私はジャンプを読んで黒子のバスケも面白く読んでいた読者の一人であった。しかし、それ以上でも以下でもなく、同人誌を作ることはおろか、買うことすらもしていなかったため、あまりこの事件について深く知っているわけではない。それでも、当時の世間の認識と犯人の視点では当然のことながら相違があることは分かり、未解決事件についてテレビでまことしやかに語る識者というものは(元からしてはいないが)信頼できたものではないなと実感した。これに関しては、一般論としても当てることは不可能に近いのだから特段責めるものではないとも思ってはいる。

 一方で、本書で読むべきは逮捕後以降、著者がなぜ自身がこの犯行に至ったのかを分析した後編にある。裁判が始まった冒頭意見陳述は注目度の高い事件でもあったためニュースにもなっていたが、著者自身でもこのときに述べた犯行動機については当時自身なりにまとめたものであったが、腑に落ちていなかったようだ。それからいくつかの書籍を読み、著者は犯行動機について自身の中で明確な答えを見出し、それを書き連ねた最終意見陳述は確かに一読に値するものであった。ここでは、最も読むのが辛かった部分を引用する。

 自分は誰からも嫌われていると思っていました。
 自分は何かを好きになったり、誰かを愛する資格はないと思っていました。
 自分は努力しても可能性はないと思っていました。
 自分は以上に汚い容姿だと思っていました。
 どうもそれらが間違った思い込みに過ぎなかったと理解した瞬間に、今まで自分の感情を支配していた対人恐怖と対社会恐怖が雲散霧消してしまいました。
(P.274 13~18行)


 私はこの事件の当事者や被害者ではなく、同人誌にも手を出していなかったために全くの第三者である。だから言えることではあると思うが、著書の中で刑期を終えて出所したら自殺すると何度も繰り返し書かれていたが、渡邊博史氏には生きて欲しいと思った。判決を受けたのは2014年、刑期は4年6ヶ月であるため、もう釈放されているはずであるが、もしかしたら今はもう亡くなっているのかもしれない。どうやらそれは裁判中に著者が出会った人たちからも同じようなことを言われているようで、その言葉が届いていたことを願うばかりである。著者はいじめや虐待からいかに逃れるかを生きる方針としていたが、高校時代での父親の死から被虐うつの状態に陥り、勉学に励むことができなかったと述べている。著者自身は自分には何も能力がないと語っていたが、高校自体は地元で一番の高校であったこと、また何よりこの本の最初は明らかに書き慣れていない人の文章であったにもかかわらず、最後にはそれを微塵も感じさせないほどの文を書くにまで至ったことから、それは環境による自己肯定感のなさによるものなのだろうと推測される。

 この本の中で著者は小学校や塾でのいじめや両親からの虐待などから自己愛を育むことや自らを受け入れてくれる場所に恵まれたなかったことを述懐している。それは裁判所で提出した一問一答形式の書証であり、そこから本書に引用されている。同じように自身の過去を詳細に振り返り、それを書面に起こして他者に触れられるようにする行為をしたら私は発狂するかもな、と思いながら読んでいた。著者は度々、自らの感じ方が他人とは大きく異なっていたことを触れていたので、もしかしたらこの作業も辛くなかったかもしれないが、それはそれで遣る瀬なさがある。
 私はこの著者ほど壮絶な人生を送ってきた訳ではないが、思い出したくもない過去というものは存在する。私はそれをただ忘れることで消化してきた。それを思い出すことすらしたくはない。それは自身の心の傷を再び捲り、塩を塗り込む行為に他ならないと思っているからであり、だからこそその話は今まで誰にもしてきたことはない。そのせいか、私自身の人間性というものは根拠のない自己肯定と根拠のない自己否定が絶えず同居している。それは普通のことかもしれない。今の生きづらさは他のことに理由があるのかもしれない。それでも私はこれからの人生もその原因としてもはや風化した過去に求めてしまうのだろう。だからこそ、過去を振り返り、自身を理解し、乗り越えた著者は尊敬に値するのだと思う。こう言えるのも、解説にあった通り、この事件では死傷者が一人も出ていないからだと思う。死傷者が出なかったのはただ運がよかっただけであると述懐されていたが、それを運ではなく著者の善性に求めたいと思ってしまうのは私だけではないと思いたい。