考の証

要は健忘録

【積読6冊目】絶滅生物図誌、それとマギレコのお話し

 在宅勤務、通勤がないから非常に楽でいいと思っていたら今週はそうでもなかった。直接を顔を合わせばすぐに済むような話でもメールで連絡を取ろうとすると、コミュニケーションがうまくいかずにイラつきが溜まるということが分かった。これは多分、自分の言いたいことを言うだけの人と一緒に仕事していると顕著に表れるんだろうと思う。ニュース等ではテレワークが進んだことで社内(?)での口論(?)が増えたということだが、確かにこれを続けていたらそうなるだろう。いつもなら職場の人と雑談してストレスを発散する場もないので、これは続いていくと大変だろうなとちょっと気が重くなる。

 そんなこんなで夜は21時くらいには眠くなり、不貞寝するような睡眠になってしまったので今週はあまり本を読めなかった。そういう訳で、今週は本というより図鑑を読んだ。

絶滅生物図誌

絶滅生物図誌

  • 作者:チョーヒカル
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


 子供の頃は恐竜や昆虫、植物といった図鑑をよく読んでいたなと思い出して買った本だ。この本にはカンブリア紀から現代にいたるまで、絶滅した生物のイラストと簡単な説明が書かれている。詳しい説明はないので、もっと知りたくなったらwikipediaを頼るしかないのだが、入り口としてはいい本なのかもしれない。また、昔の生物は淘汰されたために絶滅しているが、ヒトが生まれた以降ではヒトがその生物の絶滅に大きく関わっている(これも進化の淘汰と言えるが)ものも多く、ちょっと暗い気持ちにもなるが、書かれているイラストも綺麗でその生物が生きていた頃を想像できるので暇つぶしに持ってこいである。


 さて、そんな今週ではあったが、つい最近「ホーリーマミさん」なるものをネットで見かけ、マギア・レコードを視聴してみることにした。ゲームの方はⅠ部の方だけしていたので、絶交階段のウワサや口寄せ神社のウワサのことを知っている程度の予備知識で見始めた。
 このアニメ、まとめて見たからまだよかったが、13話中10話まで見ないと話が進まない上に、「調整屋」って何?とか、「ウワサ」って何?とか、ソウルジェムが濁ったときに出てきたやつは何?とか、話がとてもふわふわしていてよく分からない。更に話の本筋である「記憶から消えた妹を探す」という縦軸もあまり有効に活用されていない。10話まではソシャゲで出てくるキャラの仲間集めであるし、キャラ数も多いのでそこまで深堀できていない。というか、モモコとレナとかえでの3人は一気に話からフェードアウトしてびっくりした。君らもっと関わってくれるわけじゃないんだ。それに最後まで見ても結局調整屋が何をするところかよく分からないし、そもそも「ドッペル」という名称が出てきたのも最終話だし、ソシャゲの方やってないと話に全くついていけない。これ、リアルタイムで見ていてみんなよくついて行けたなって。良かった点は毎話服装が違って出てくるやちよさんがいたところ。モデル設定がちゃんと活きていたので関心していた。そういえば、みふゆって出てきていたっけ?全然覚えていない。

 そして問題のマミさん。アニメだけだとドッペルを使っているのはわかるけど、ウワサとも融合しているのってわからない。神浜聖女のウワサって作中に出てきたっけ?マミさん変身前に一回文字で出てきただけだと思うんだけど。というか、脚本上仕方ないとは思うんだけど、マミさんは精神弱すぎるのに、その精神が弱った時でも戦闘センスがピカイチなの怖すぎる。まどマギでも魔法少女の真実を知った時に、近接系の杏子を仕留めた後に時間停止能力を持つほむらをリボンで拘束して次の攻撃に移るとか、動揺している癖にやっていることがえげつなさ過ぎて怖いんだよな。きっと動揺している自分と周りを俯瞰してどう行動するのが最適解か考えている自分の二人が常にいるに違いない。叛逆での精神万全状態のマミさんも強過ぎるんだよな。そもそも、マミさんの能力ってリボンなのに何をどうしたらリボンからマスケット銃が作れるんだ。どう考えても後方支援系の魔法少女なのにおかし過ぎる。今回のマギレコだちドッペルとウワサの相乗で火力お化けになっていて戦い方に洗練されていたところはなかったたけど、確かに永遠とマスケット銃を作って打ち続けるのが最適解だからな。しかも予備動作なしにティロフィナーレも打てるし、強過ぎる。何だこの魔法少女。にしても「私たち騙されてたの」って何に騙されていたんだろう。今のところ、灯火のドッペル化による魔法少女の救済に穴はなさそうだけど、その辺りも2期で明かされるのかな?あと杏子とさやか。ほんと友情出演みたいな感じで笑ってしまった。まあ杏子の戦闘シーンも見れたし、さやかの珍しい真っ当な戦闘シーンも見れたし、満足っちゃ満足かな。あ~、叛逆見たくなってきた。
 それにしても、やはりアニメ化するにあたってキャラ数絞ってもっとそれぞれのキャラを深堀してほしかったな。最初のレナとかえではよく掘り下げられていたけど、モモコとやちよはほとんど掘れていなかったし。やちよ、もうちょっと前からデレてたと思うんだけど。

 結局、なんだか不完全燃焼に終わってしまった。やはりソシャゲをそのままアニメに持ってくるのは難しいんだなと思った。叛逆見よ。

春も消毒も終わらせたいから

 新型コロナが流行りだして早3ヶ月。街行く人々は大分減ったように思えるが、暖簾をくぐれば沢山の人がいる。これまで街行く人たちはどこに行っていたのだろうか。結構な不思議だと思っている。
 世界の国々ではパンデミックによる都市封鎖が行われ、徐々に入国禁止令が出始めて人々の流れが断ち切られている。今回のCOVID-19は毒性の低いタイプと高いタイプが混在していることがこれほどの騒ぎを起こしている原因と聞いているが、私はこの十数年でこれほどまでに人の流れというものが多くなっていたのかと改めて気付かされた。これからの世界はどうなっていくのだろうか。元々、自国第一主義が台頭し始めていた中での新型コロナによる強制的な鎖国がなされている。新型コロナが治まった頃、世界は元に戻ることができるのだろうか。


 春になったかと思えばすぐに寒くなったりしている。先週末は前日比で15℃もの気温差があり、若干雪のようなものが降ったりもしていた。普通に体調を崩すような気温差は季節の変わり目だからだろう。去年もだったが、桜が満開になってからの雪というのはこれからの風物詩になるのだろうか。このような気温差が出るのであれば、いっそのこと春も終わってほしいものである。

 久しぶりの今期は虚構推理と防振りの2本のアニメをなんとか1クール見ることができた。
 虚構推理は推理部分が若干アニメとの相性が悪かったのかもしれないが、作画のレベルも高く、面白く見ることができた。特に最終話の九郎の真顔で言う甘いセリフと、それを聞いた岩永の反応が見れたのが非常に良かった。ストーリーの長さも1クールがちょうどよかったため、冗長にならず良かったのではないかと思う。2期をやるのであれば、ぜひうなぎ屋の話と(最新ではあるが)スリーピング・マーダーをアニメ化してほしいと思う。うなぎ屋の話は見たいという話をよく見るが、自分含めなんでそんな好きな人が多いんだろうか。ちょっと気になる。
 防振りは漫画の1話だけを読んだことがあったので視聴してみた。典型的ななろう系であったがゲーム中の話であることと主人公が倫理崩壊系キャラではなかったのでギャグアニメだったのが耐えられた原因だろう。加えて1層のときのサリーの水中ボス戦と1層ボス戦は作画クオリティが謎に高かったのに驚いてその後も作画に期待したのもあるだろう。実際、魔王系主人公のギャグアニメとして(主に主人公の敵目線として)楽しむことができたが、やはりなろう系あるあるの「あれ?おれまたなにかやっちゃいました?」があるのが辛かった。普通の人間であればそこまで来たらおかしいことは気付いてくれるだろうに。そしてそれに周りが一斉に突っ込むのも、伝説の「くぅ~疲れましたw」を思い出させて辛い。そういう定型文のないお話しが見たい。
 一方でつい先日に超異世界転生エグゾドライブのコミカライズが始まってテンションが上がっている。原作以上に原作通りで絵もキャラデザもコマ割りもハチャメチャに上手くて更に読みやすく面白いという凄まじい漫画がこの世に生まれてしまった。ストーリーも短めで気持ちよく終われるので、これは映像化間違いないです。ほんとに。


 最近、「なんで自分はそう思うのか」というのをよく考えている。よくある「ああしたい」「こうしてほしい」「そうだったらいいな」という思いについて、先ほどの疑問をぶつけると、その理由・原因というものをあまり自覚していないことに気付いた。この書き方は正しくなく、本当は自覚してはいるが言語化できるほどはっきりしていないのだろう。これからのブログでこんな日常の更新をしていくときは、そういう「なんで」について深堀していきたいと思う。

 この半年が自分の人生を決めるのに大切だと思っている。無為に過ごすかもしれないが、できるだけ有意義な日々を送っていきたい。

【積読5冊目】時間は存在しない

 積読と言いつつ最近買った本しか読んでない。仕方ないよね、最近の方がまだ興味薄れてないから。次は1年以上買って放置している本でも読もうかしら。

 5冊目は「時間は存在しない」。大きなジュンク堂の近くまで行ったときに平積みされていて表紙買いした本の1冊である。

時間は存在しない

時間は存在しない

 本書は現役の物理学者が一般向けに今まで時間についてわかっていること、わからないこと、著者の仮説などをまとめて一冊であり、小難しい数式は1つ、それもクラウジスの不等式と呼ばれる熱力学第二法則を表す、物理化学を勉強し始めてすぐ出てくる式しか出てこない。それが逆に直感的な理解を妨げている気がするが、微分方程式が出てきても正直分からないと思うので、これでよかったのかもしれない。
 構成としては、まず私たちが思う「時間」とはこの宇宙において普遍的なものではないことを示される。その後、なぜ「時間」が普遍的ではないのかを著者の「ループ量子重力理論」から説明され、「時間」というものは物理の基本法則にはないことが示される。そして最後の章では「そんなこと言っても時間はあるよね?」という読者のために、なぜ私たちが「時間」を感じるのか。過去の哲学者たちの言葉を引用しながら著者は私たちが感じる「時間」に関して考察をして本書は〆られる。

 読んで自分なりに理解したのは、私たちの感じる「時間」は普遍的な概念ではなく、かなり特殊な概念であり、なぜそうであるかといえば私たちが存在する(感じる)宇宙が「特殊」であるからといったところだろうか。
 普遍的な「時間」がない、というのはアインシュタイン相対性理論でも示されている。同じ地球上でも海底と上空では地球の重心からの距離の差によって海底の方が時間の進みが遅い。これは時間が重力場によって生み出されているからに他ならない。また、時間は速度にも依存する。これは恒星間旅行を行うようなSF(インターステラーはよくできた映画だと思う)ではよくある描写である。そういった事実より、地球上を生きる私たちでさえ同じ「時間」を共有していない。ただそれを感じられないのは、私たちの持つ質量があまりに小さく、動ける速度もあまりに遅いからである。もしそうでないとすれば、きっと体を大きくして新幹線に乗ることが流行っていることだろう。より大きな視点に立てば、地球と夜空に見える星々が同じ「現在」を刻んでいるかなどというのは議論できない。先ほど書いたように星の質量も違えば公転速度も違うために時間の流れも違うだろう。そもそも光ですら何万年とかかるほど遠くにある星の「現在」を観測することなどできやしないのだ。そういう意味で、私たちの「時間」という概念がこの宇宙で普遍であるということは言えないだろう。
 では「時間」とは何なのか。それは著者によれば私たちの視点がマクロなものであるが故の「ぼやけ」であり、視点を量子単位にまで落とし込めば素粒子の位置と速度の「非可換性」こそがその正体であるそうだ。量子力学などは大学で習って大半の人が理解できずに脱落していく学問なので言及を避けたいところである。本書によれば、ニュートン力学では状態を表すための変数として必ず「時間」が入り込むが、この素粒子のレベルまで落とし込むと状態を表す変数に「時間」は存在しない。

存在するのは、出来事と関係だけ。これが、基本的な物理学における時間のない世界なのである。(P.147)

 ではこういった「出来事」と「関係」だけが物理学の基本法則であるのに、なぜ私たちは時間を感じるのか。物理学の法則の中で、時間の方向性を唯一示すものは熱力学第二法則だけだそうだ。これはエントロピーは必ず増大する方向に向かうという法則だが、つまるところ、綺麗に配列した状態から変化するときは同じ配列もしくはそれよりも煩雑になった状態にしかならないことを示している。本書ではトランプのシャッフルで説明される。例えば、12枚のトランプで上に赤6枚、下に黒6枚の状態のものをシャッフルすれば、必ずトランプは赤と黒が入り混じった状態になるが、これがエントロピーの増大を示している。宇宙は過去から現在に至るまでエントロピーが増大する方向に動いているそうだが、これが普遍的な時間を信じさせている。が、本書で上手いと思うのは発想の転換の仕方だ。先ほどの例で言えば、12枚ランダムに並べたトランプをシャッフルした後、トランプの配列はランダムのままなのでエントロピーは増大していないように思える。だが、初めの配列から確実に変化しており、私たちがエントロピーが増大していないように見えるのは「私たちがその配列の意味を知りえないから」ということ。逆に言えば、最初の例を挙げれば「赤と黒に意味を見出している」のは私たちに他ならない。もしかしたら、私たちに見えていない配列を含めれば、エントロピーは増大していないかもしれない。そういった意味で、物理学の基本法則にはない「時間」という概念を私たちは特殊な立場に立っているからこそ感じているのだ。


 なんて内容でした。いや、正確に理解できているかはわからない。読んでから感想を書こうと思っていたら麒麟がくるが始まってしまい、義輝様が格好良すぎてブログに書く内容が飛んでしまったからだ。罪な男だ。
 そんな話はさておき、本書では上記に述べたような発想の転換が非常に上手いと感じた。初めの部では以下のように物体の落下を説明している。

物体が下に落ちるのは、下の方が地球による時間の減速の度合が大きいからなのだ。(P.18)

普通、物体が落下するのは重力に引っ張られるからだという説明になる。だが、この重力は「時間」という言葉で言い換えても問題ない。なぜなら、重力場で発生するのは「時間」と「空間」の歪みであるからだ。本書ではこういったこれまで常識であると考えていたことを違った視点で見ると新しい発見があることを沢山教えてくれる。

 他に印象に残っていたのは、ニュートンの話である。ニュートン万有引力の法則で有名だが、彼は「絶対的な時間」や「絶対的な空間」なるものを信じていたようだ。この話を読んで、私は大学で受けた科学史の授業を思い出し、ニュートンらしいと思った。
 万有引力の逸話でよく知られているのは「ニュートンは木からリンゴが落ちるところを見て万有引力の法則をひらめいた」というものである。実際はそうではない。当時の人でもリンゴが地球に引っ張られて落ちていくことは知っていた。重要なのは「地球上の物体だけでなく、リンゴと同じように月すらも地球に落ちている」ということである。ニュートンは当時地球と神が住むと考えられていた空では違った法則が流れていると信じられていた中、地球だけでなく空の領域でも同じ法則が流れていることを発見したのだ。だからこそ「万有引力」なのだ。そんな発見をしたニュートンだが、この法則から彼は神の存在証明をしようとしていたと授業で習ったのを覚えている。彼は神学者でもあり、この世の全てのものに働く美しい法則を作れるのは神だけだと信じていた。そういったエピソードを知っていると、おそらくその「絶対的な」時空間も神がこの世を設計したら全てを美しく設計していると考えてもおかしくないだろう。そういった意味でニュートンらしいと思った。

 また関係ない話をすれば、どうしてヨーロッパの人々は物事を説明するためにわざわざ哲学者の言葉やシェイクスピアを引用するのだろうか。単なる比喩なのだろうが、むしろ説明が冗長となってしまい言いたいことがぼやけているように思える。これは私がそういった知識に疎いせいなのかもしれないが、明らかに翻訳者あとがきの方が本書を理解するうえで役に立つはずだ。

 と、テレビを見ながら感想を書いているとどうしても書く内容に筋を通すのが難しい。初見のテレビを見ながら原稿を書く小説家もいるらしいが、どういう頭をしているんだろうか。気になって仕方がない。

【積読4冊目】バッタを倒しにアフリカへ

 休日、今日は外に車で買い物に行ったのに本を2冊読めた。普段自分がどれだけ無駄な(?)時間を過ごしているかが分かる。子供の頃は本を読むのに時間がかかっていたが、今では普通の小説であれば3時間程度で読めるようになったのはやはり経験値がモノをいうのだろうか。自分の専門分野ではない本を読むときは三行読んで五行戻ることもあるので、そう思うと流し読みしているだけな気もする。

 本日2冊目の本は前野ウルド浩太郎氏の「バッタを倒しにアフリカへ」である。確かこの本を知ったのはTwitterだった気がする。なんでも、バッタが好きで触れ合いすぎたらバッタアレルギーになったバッタ研究者がいるらしく、そんな人が書いた本があると。実際、読んでみるとマイナー分野でPh.Dを取った人がその分野で飯を食っていくために定職を得るまでの話であった。地味に笑ったのは、てっきりアフリカでサバクトビバッタの研究をしてからアレルギーになったかと思っていたら日本の大学院時代には既にバッタアレルギー持ちになっていたところである。端折られているだけで、この人日本にいるころから相当バッタと触れ合っていたのだろうか。そもそも虫アレルギーってなんなんだ・・・?そんな疑問もつい出てきてしまう。

 本書の内容は上記にある通りだが、バッタ研究のフィールドワークという誰もやっていないような分野を、しかも日本から遠く離れたモーリタニアというアフリカの国に一人単身で渡り、ポスドクの任期も終わり無収入のまま、時には干ばつに見舞われてバッタがいないといった事態に巻き込まれながらも、その日々を著者の底抜けポジティブな語り口で書かれた本である。意外に思ったのはサバクトビバッタの研究は、今年ニュースに大きく取り上げられていたが、フィールドワークでの研究が行われておらず、蝗害対策も殺虫剤による対症療法的なものであったことだ。確かに、映像で見ると一面バッタだらけで空も埋め尽くす群れを見ると結局のところ殺虫剤で対処するのが一番コストパフォーマンスが良いのだろう。本にある通り、これは数年に一度程度起きるもので毎年起きるものではないこともそういった現状維持をしている原因であるのかもしれない。
 そんな真面目な感想もあるが、本書の面白いところはバッタの研究以外にも普段のモーリタニアの生活などの失敗談等も混みに赤裸々に語っているところだろう。きっと、この本には面白おかしく書かれているが、その当時は本当に大変であっただろうし、たくさん悩んでいたと思う。実際、ポスドクの任期が切れて無職のままやりたい研究を続けるか、日本に戻ってバッタ以外の研究を行うかを悩んでいるところは非常に辛かったんだろうと思う。このときに著者が世話になっていた研究所のババ所長の「つらいときは自分よりも恵まれたものたちを見るな。みじめな思いをするだけだ。(中略)嫉妬は人を狂わす。(P.264)」というのは真理だと思う。このババ所長は子供の頃に死にかけた経験をした後に、これから先の人生はないものだと思い人のために働きたいと親の反対を押し切って勉学に励み、サバクトビバッタの研究所に入って蝗害と戦う人なのだが、めちゃくちゃに人が好さそうなのが伝わってくる。やはり現場で働く人には頭が上がらない。
 個人的に好きなエピソードはモーリタニアへ行った年に干ばつによってサバクトビバッタが現れなかったときにゴミムシダマシの話である(バッタの本なのに)。おびき寄せるスパゲティを腹いっぱい食べて動けなくなるところも良いが、食べ過ぎて体が膨らんで首-胴体の節が伸びる話やその状態で首を押し込むことで腹の先から生殖器が飛び出して雌雄判別ができる話など、本当の話かと思うくらい面白い。しかもその後ゴミムシダマシで実験をしているとハリネズミに食われてしまい、そのハリネズミを捕まえて監禁という名目で飼ったり、すっかり忘れた頃に再登場するところも良かった。
 そういった研究の他、サバクトビバッタの研究で食べていくために日本での啓蒙活動(?)をしていく中で多くの人と繋がったり、職を得るための面接の話などもあた。特に前者ではやはり一つの夢や目標に向かって全力を尽くしている人には同じように志の高い人たちが集まるのだなと思った。全力で人生を生きている人たちを見ると羨ましく、そういった目標を人生で持ちたいなと思う。またそういった人たちとの話や後者での面接の話の中で思うが、やはり「見ている人は見ている」のだ。だからいくら周りが馬鹿にしていても、誰からも見られていないと思っていても、しっかり仕事を出していればいつか、誰かがそれを必ず見つけてくれて、そして認めてくれるのだなって思う。

 本書では研究そのもの話というよりは、エッセイに近いものかもしれない。バッタや研究のことが分からなくても楽しく読める本で誰にでも勧められると思う。これから日本でもサバクトビバッタの研究が盛んになるといいなぁと思わせる本でした。

【積読3冊目】ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在

 久しぶりの更新。休日も少し忙しかったりして落ち着いて過ごす日がなかったが、これからは休日は、というより平日も大分時間を取れるそうだ。それがわかっていたため、積読は減るどころか増える一方で気付けば30冊は余裕で越えていそうだ。だいたい一冊3日かけるとしても90日で読み切れると思えば、そんな積んでいないかもしれない。そもそも積んでいる中には普通の小説もあるため、毎日読書すればもっと早い段階でなくなるかもしれない。

 そんなこんなで、久々の積読消化は「ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在」である。この本は以前本屋に行ってぶらぶら時間をつぶしていた時に目に入って買った本だ。最近は新型コロナウイルスの話題が尽きないが、そういった時事的な要素もあり平積みされていたのかもしれない。

 内容は「ウイルスとは何か」といった話から始まり、ウイルスをどう人類が発見したのかといった始まりから現代までのウイルス学に関して各章ごとに書かれている。こういった本は難解であると思っていたが、読んでみると大学一年生の教科書のようにわかりやすく、ウイルスとは何かを勉強するにはうってつけの本であると思う。というのも、本書はウイルスの発見から現代までの歴史(科学史にならってウイルス学史というのだろうか)を小難しい用語を使わずにまとめている。ウイルスの話と言えば、過去人類は天然痘や牛疫の根絶に成功したということは一般常識としては知らているが、それがなぜできたのか、どういったアプローチで可能としたのかといった話などがまとめてある。

 またウイルスでよく挙がる話といえば「ウイルスとは生命であるのか」というものである。生命の定義といえば自己複製能力を持つことなどが挙げられる(本書では生物学者が提案した定義として「self-reproduction with variations(変異を伴う自己増殖)」を紹介している)が、ウイルスはそれ自体で自己を複製する能力を持たない。必ず他の生命の力を借りる必要がある。私もそういった知識からウイルスは(限りなく生命に近いが)生命ではないと思っていたが、本書を読んでからその認識が大きく変わった。確かにウイルス自身に自己複製能力はないが、彼らは決して装置のような存在ではなく、自然界において重要な地位を持つ生命ではないかと今は考えている。

 そうなると、ウイルスがどのような系譜を持つ生命なのか、非常に気になってしまう。本書による現在の仮説は三つあり、「ウイルスは細胞の出現前より存在していた」、「ウイルスは細胞から逃げ出した遺伝子である」、「ウイルスは細胞が退化したものである」があるそうだ(詳細はぜひ本書を読んでほしい)。一方で、これは別の本ではあるが、ニック・レーン著の「生命、エネルギー、進化」では(うろ覚えで申し訳ないが)エネルギー勾配のある場(アルカリ熱水噴出孔にある微細構造)において細胞の中身ができ、そのあとに細胞膜ができた(ゆえに細菌とアーキア、真核生物は膜構造が異なるにもかかわらずDNAやその転写酵素が共通している)と仮説を打ち立てていた。そうすると、もしかしたらウイルスはそのころから存在していたのではないかと勝手に妄想を膨らませたりできる。このあたり、全然知識がないので勉強しないといけないなと思う。ちなみにこの「生命、エネルギー、進化」は今回紹介している本とは打って変わって専門用語のオンパレードで読むのに時間がかなりかかるが、理解できれば非常に面白い本なので、生命の起源に興味のある人にはぜひ手に取ってほしい本である。

 やはり生物、生命に関する勉強は知的好奇心をくすぐられてしまう。大学の専攻を工学部化学科であったが、理学部化学科にしていればまた違った人生だったかもしれないとふと思う。大学の頃は再生医療に関する研究を行っていたが、非常に難解で勉強量が圧倒的に足りていなかった。こういった本たちに出会えていればより情熱を持ってこういった学問に向き合えていたかもしれないと思うと少しばかり後悔してしまう。過去を悔やんでも仕方ないので、こういった知的好奇心が出ている内に早く次の本を読んでしまおう。

映画「AI崩壊」の感想と考察

 「AI崩壊」は見る気はない映画でした。元々邦画はあまり好きではないのが原因だが、正直その理由は自分でも良く分かっていない。万引き家族は破茶滅茶に好きなのだけれど、他の邦画は作りが甘いというか、物語そのものに魅力をあまり感じていないのかもしれない。はたまた、大画面で見るのが同じ日本人であるために虚構の中と分かっていても現実味を感じて嫌なのかもしれない。どうなんだろう。
 そういう風に思っていたけれど、AIの描写は本当の研究者が監修しているとの情報があったり、Twitterのたまに流れてくる感想では意外と高評価であったり、更にたまたま今日が1日で安く映画が見られると気付いたので行くしかないということで言ってみました


 結論から言うと、意外と面白かったです。


 元々は創薬系の研究でAIを活用していた桐生浩介は妻・のぞみのがんを治療するために医療AI「のぞみ」を開発したが、厚労省の医療機器申請が通すことが出来ずに妻を亡くしてしまった。その後、医療AI「のぞみ」は医療機器申請が通り、日本中に普及して全国民の個人情報と健康を管理していた。一方で桐生浩介は一人娘の心とともに妻の遺言である「これからはプログラムを書かずに娘としっかり向き合ってほしい」という願いに応え、シンガポールでAI研究とは無縁の生活を送っていた。移住してしばらくして、妻の弟である悟から医療AI開発に携わった桐生に総理大臣賞が渡されることが決定したこと、またその授与式に出てほしいことが伝えられた。初め桐生は日本へ行くことを躊躇っていたが、心の「父さんの作ったAIを見たい」という想いに応え、久し振りに日本へ帰国。そして悟が代表取締役を務めるHOPE社にて医療AI「のぞみ」を見学した後に内閣府へ向かう際、突如として「のぞみ」が暴走。もはや日本のインフラとして機能してた「のぞみ」の暴走はAI補助を受けていた医療機器の停止を招き、次々と入院患者やペースメーカーを持つ人々が亡くなった。この暴走の犯人としてテロリストの容疑をかけられた桐生は警察に追われてしまう。そんな中、「のぞみ」はネット情報から突如学習し始めた。人々が生きるに相応しいかの価値を。


 というあらすじでした。元々医療AIとして開発された「のぞみ」は人々の生命を任されるものであるため、その機能を制御するために一部の学習機能は組み込まれていなかったようだ。その枷を外して学習の方向性を誘導した犯人は誰なのか、その目的は何なのかというSF要素の他にもミステリ要素もあるが、犯人候補は少ないために見ていれば誰かは普通に分かる上に動機についてもまあまあ予想できるところではある。

 人に関する物語は普通でしょうか。作りが甘いところもあるように思える。というのはやはり最後の犯人の動機が分かるところである。おおよそ、ゲームでもあるように悪役というものは追い詰められてもいない、言う必要もないのに自分の目指すものについて話してしまうものである。本映画でもその通りで、わざわざ話す必要もないのに得意げにベラベラ喋っていたら、桐生がハッキングした虫型ドローンを介して日本中に中継されてしまい、間抜けな自白をしてしまったというオチである。また、その動機も「医療AIの持つビッグデータを手に入れるため」「少子高齢化が進み、詰んだ日本を立て直すにはAIによる選別を行って価値のない人間を排除する必要がある」との月並みなものである。ここの自白については、犯人の生い立ちなどの深堀がなされていないのであまり感情移入しづらいために、よくある盲目なエリートによる独裁みたいな感想しか出てこない。つまるところ、こういう思想を有する人は他人に対しても自分に対しても想像力が根本的に足りていないのだ。「生命の選別を行った際、必ず自分は世界に対して有益である」などと言うことを根拠なく信じており、自分が選別により命を落とすことなど微塵も考えていない。例えば、今回の犯人が不治の病を持つ病人であり、安楽死を求めていたのに医療AIはひたすらに生き続けることを求め続けるために地獄のような日々を送っていた、なんて背景があればもう少し共感できたかもしれない。かも。

 一方で、AIに関する描写はかなり作り込まれていて良かった。テロリスト容疑をかけられた桐生は逃げる先々に警官が配置されているのだが、これは警察が有するAIが監視カメラやドライブレコーダー、はたまた通行人のスマートフォンから映像を画像解析することで桐生を追い詰めていたからだ。画像認識と言いつつも、顔や体格だけでなく三次元モデルによる骨格や歩き方といった動作による照合を行っており、顔を隠す、服を変えるなどといった生半可な手段では逃げることができない。桐生は自身の有する電子デバイスを全て廃棄、建設中の地下水路を通ることで警察の目を巻くことに成功している。また作中の後半では逆に警察AIをハッキングして他人を「桐生浩介である」と認識させると言う荒技を見せているが、主人公の優秀さを示すこと、この状況をどうやって打ち破るかといったところに爽快感があって良い演出であると感じた。


 個人的に一番良かったのはクライマックスの「のぞみ」を止める演出だった。「のぞみ」の学習を止める為の改良プログラムは完成したが、「のぞみ」自身は外部からのアクセスを受け付けなかった。その為、サーバールーム内にある「のぞみ」の外部認識カメラから直接プログラムを読み込ませる必要があった。娘の心は訳あって「のぞみ」のサーバールームに閉じ込められており、このプログラムを読み込ませるのに心が活躍するのだが、それはシンガポールでの父との何気ない日常の記憶がきっかけであると言うのがまた良い。「のぞみ」の暴走が止まった後、桐生は心の元に駆けつけて抱きしめるのだが、その時に言う「父さん、汗臭い」と言うセリフが良かった。冒頭では父親を鬱陶しく思って言ったセリフと同じものなのだが、このラストシーンでは父親が来たことの安心感と自分を助ける為に奔走したことに気付いて愛されていると感じたと言う暖かいセリフになっている。こういうセリフの使い回しは創作では使い古されているかもしれないが、やはり何度も使われる理由は単純に素晴らしいものだからだと思う。王道は面白いから王道なのだ。

 またこのクライマックスにて、「のぞみ」の暴走を止めたのは学習プログラムの停止や現行機能の停止、初期化などではない。学習するというもはや枷を外されたAIに対して「自らが作られた理由を思い出せ」という指令であった。この描写は好き嫌いが別れるかもしれないが、私は最高に活かした指令であると思う。もはや思考に制限が掛けられずに暴走したAIに対して、自らのアイデンティティを確立させる。なぜお前が作られたのか、何が望まれているのか。そしてそれは人々を救う為である。その名前の由来であるのぞみが望んだことは「病で苦しむ人々を救う」こと。AI「のぞみ」はその自らのアイデンティティを確立したこと、何故この世に自らが生まれたのかを理解することで暴走を止めた。そして、それまでは少しばかり古い電子音のような「のぞみ」の声はまるで肉声のようなものに変わっていた。この変化が示すことは「のぞみ」がもはや元のAIではなく、意志を持ち、自らを進化させ続ける全く新しいAIとなったということである。なんで近未来の話なのに音声が古いんだろうと思ったらこの描写をしたかったからかと気付いて膝を打った。これはその後の犯人の独白からも示唆されている。この犯人は嫌いだったのでなんだこのシーンはと思ったが、後になって「のぞみ」の進化を示唆する重要なものだったのだと気付いた。また劇中ではAI嫌いの記者から桐生は「AIは人を幸せにするのか」と問われており、その答えとして桐生は心に「さっきの問いは『親が子を幸せにできるか』と言い換えられる」と言っている。つまり、結局のところ人間が正しい知識と正しい判断をする必要があり、AIは単なる手段に過ぎず、全ては人が決める事だと言っていた。


 やはりこの映画の真価は最後の「のぞみ」のアイデンティティの獲得による暴走阻止とAIとしての進化である。それを示したラストシーンがとても良かった。流石、研究者が監修したというだけはあると思う。SF映画としてAIに関する描写はとても優れていた。一方でストーリーとしては桐生の義理の弟である悟がとても好きで、もっと彼のことを掘り下げて欲しかったとも思う。映画という枠組みではあれこれと詰められないのでこうなったのだろうと惜しく思うが、2時間という限られた時間でこれほどのストーリーを展開できたことは非常に高く評価すべきだ。

 そう言った訳で、AI崩壊はSF映画が好きな方は一度見ても良いのではないでしょうか。

【積読2冊目】ケーキの切れない非行少年たち

 年末は長いこと体調を崩していたが、また今週の初めあたりから体調を崩してしまった。風邪やらなんやらで、免疫力が落ちているんだろうか。しっかり栄養を取って休むことを勧められたが、栄養とか何も考えずにひとまず野菜や果物食べてればいいだろうの精神で自炊しているので、これからは反省したほうが良いのかもしれない。


 さて、今回は去年Twitterで話題になった「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだ。本書は児童精神科に勤務していた著者が非行少年たちのことを知るために医療少年院に勤務し、その経験を書いたものである。

 内容に入る前に犯罪を犯した未成年は少年法で守られていることに対して、反感を持っている人も多いのではないだろうか。かくいう私も、そう思っていた。少年法が成立された昭和23年と現代では時代が変わっている。当時は戦後ということもあり、困窮した少年(ここでいう少年は男に限らず女も含まれる)による窃盗や強盗が急増したことから、そういった少年を保護、再教育することが目的であった。それに対して今ではそういった生活が困窮したことが原因であることよりも、他の(「どうしてそんなことをしたんだろう」と首をかしげるような)理由のものも多く見られるように思える。これはそういった犯罪の方がセンセーショナルで報道が盛んにおこなわれることが原因の一つであると思われるが、生活レベルに関しては戦後と比較した場合は圧倒的に良くなっているといえるだろう。そういった理由から、私も少年法は改正、成人と同様にしても良いのではないかと考えていたのだが、本書を読み、その考え方が大きく間違っていることに気付かされた。

 いわゆる非行少年たちはなぜ犯罪に手を出すことになるのか。それは(全員とは言えないが)少年たちの生まれ持った性質に依るところが大きいと本書では述べられている。原因としては最近認知が広まってきている「発達障害」やまだ浸透はしていない「軽度知的障害」といったものと、それを有する少年たちの環境の問題があった。そういった障害を有する子でも、親がそれに気付き、病院へ行くような環境の子であればそういった非行に走ることは少ない。一方で、そういった障害が気付かれなかった少年は、「勉強ができない」「人間関係が上手く築けない」「それらが原因でいじめられる」などといったストレスを受け続ける。更に、学校という環境では(実際に効果があるかは不明だが)教師が面倒を見ようとするが、学校を卒業するとそういった眼からも離れ、孤立化することが非行へとつながる原因として挙げられていた。これらの原因として最も問題であるのは、そういった原因が周りの大人だけでなく本人ですら気付けずに放置され、適切な支援が受けられないことであると本書では述べられていた。

 本書では、そういった少年たちが世界をどう認識している(できていない)のかということを「ケーキが切れない」と具体的な例を挙げつつ紹介している。彼らは(IQ100程度の人と比較して)「見る」「聞く」などといった認知機能が低く、情報を正しく得られていない。そういった認知機能の低さから「勉強ができない」「コミュニケーションがうまく取れない」などの症状として表れるため、そういった子たちの支援ではまず認知機能の向上から取り組む。そうしなければ、そもそも自分の犯した犯罪の重さに気付くことができないそうだ。また犯罪を行った理由として、上記の症状やそれによるいじめなどのストレスをため込むことが原因であることから、被害者が加害者に転ずるが多い。彼らが適切な支援を受けられていれば、(必ず解決するとは言えなくとも)症状の改善傾向が見られ、そもそも彼ら自身が被害者にも加害者にもならずに済む。現在はそういった支援は少年院でしなければならない現状ではあるが、そういったサインは主に小学2年生から表れるため、学校での支援が被害者・加害者を生まないために重要であるとも述べられていた。


 本書を読んで思うことは、私は過去出会ってきた人のことを思い出した。勉強ができずに周りから浮いていた子がいた。話しているところを見たことがなく、何を考えているかわからない人がいた。仕事が不思議なほどできずに嘘をつく人がいた。そういった人たちはもしかしたらそういった支援を受けられなかったのかもしれない、と。
 ただこういった話をするとき、必ずといって差別の問題も出てくるだろう。例えば、Twitterで投稿した実録話に「それは発達障害の症状と思われるから医者に行った方がいいと思います。」のような素人による決めつけ、レッテル貼りが行われるところを見たことがある。それは善意かもしれないが、医者でもなんでもない人間が他人に向けて「あなたは障害を持っているのでは」なんていうのはたとえそれが真実であってもとてつもなく失礼にあたることだろう。似たような話を扱っていた某饅頭のフォローを外したのも、彼の背後にある差別意識がありありと見られたことが原因であった(また資料も正確に引用せずに自分の言いたいことに資料を寄せて使っていたところもどうかと思っていた)。

 ではどうしたらよいのか。正直、素人である自分には直接相手に何かできることはない。一方で、間接的ではあるが本書を紹介し、認知度を上げていくことが時間はかかるが自分にできる精一杯ではないかと思っている。そういった訳で、本書に興味を持った方はぜひ手に取り、読んでもらいたい。

 また、直接本書には関係がないが、そういった生まれ持った性質や環境といった本人にはどうしようもないモノに対して、どう社会は保証していけるのだろうか。これは、IQが低いといったことや家庭環境が悪いといったものだけでなく、その逆の場合でもそうだろう。頭が良かったり家庭環境が良かったりする人は、概して努力をすれば問題は解決できると思っているところがあるが、その努力は本当に当人の意思に依るところなのだろうか。たまたま出来の良い頭に、良い家庭環境のところに生まれたからではないのだろうか。もしそうであれば、今自分が不満ない環境で生きていけていることはただ運が良かっただけではないだろうか。「こうはなりたくない」と思う人は誰にでもいると思うが、あなたはその人に生まれたらそうならない自信がありますか、と。これは答えが何もないし、だからどうかという話でもないし、まとまりもないので今回はここで終わり。