考の証

要は健忘録

カレーのレシピ Ver.2.0

 この三連休は少し時間を持て余しているところもあり、ちょっと料理に力を入れてみた。先日ボロネーゼを食べたときに、これは家でも作れるなと思ったので作ったのだが、味付けする前の工程まではいつも作っているキーマカレーと同じだと気づいた。
 そういう訳でそこで培った経験を生かしてカレーを作ってみたところ、美味しくできたのでちょっとブログにまとめようと思う。
 本当はさっきのデザインの話と同じところにまとめようと思ったが、さすがに全く関係ない内容を二つ乗せるのはどうかと思い、またよく話をするときに話題が多すぎると言われるを思い出したので今回は分割した。

<材料 4人分くらい>
・オリーブオイル 大さじ3杯
・にんじん    1本   (150~200g)
・たまねぎ    1コ   (150~200g)
・セロリ     1/2本 (100~150g)
・にんにく    1~2欠片(量は完全に好み)
・ひき肉     300g

ローリエ    2枚
・赤ワイン    200cc
・トマト缶    1缶 (ホールトマトでもカットトマトでもよい)
・カレーフレーク 90g(横濱船来亭カレーフレークを使ってる)
ウスターソース 大さじ2杯
・砂糖      小さじ1杯~大さじ1杯
・95%チョコ  1~2欠片

<手順>
 1.にんじん、たまねぎ、セロリ、にんにくをみじん切りにする。ひき肉は冷蔵庫から取り出す。
 2.オリーブオイルをフライパンに引き、にんにくを加えて点火する。
 3.中火でにんにくを1~2分ほど炒めて軽く色がついたらにんじん、たまねぎ、セロリを加える。
 4.中火で30分程度炒める(ソフリットを作るイメージ)
 5.炒めた野菜を鍋の外側に寄せ、中に塩コショウを振ったひき肉を塊のまま加えて強火にする。
 6.両面を軽く焦げる程度まで火を通す。
 7.中火に戻して赤ワイン、ローリエを加える。
 8.ひき肉を崩しつつ、赤ワインの水分が飛ぶまで中火にかける。
 9.トマト缶、カレーフレークを加えてトマトを崩しながら全体が均一になるよう混ぜる。
10.弱火にしてウスターソース、砂糖、95%チョコレートを加えて味を調える。

 そんなレシピでできたカレーがこちら。

 隠し味の砂糖は辛口でない限り必要ではない。ちなみにこの砂糖は甘くするためではなく、辛味を引き立てるためのものだ。あと95%チョコレートは本当に入れた方がいい。味の深みが全然違う。
 今回はボロネーゼを作るときのソフリット、そして赤ワインで一度煮込むという手順をレシピに加えた。またボロネーゼではひき肉を塊のまま両面が少し焦げる程度焼くのだが、そうすることで肉の香ばしさがつくらしい。そういった手順を加えたおかげか、いつもカレーフレークを加えてから何か物足りないと思って色々味を調えるのだが、今回はフレークを入れた時点で美味しさが全然違った。

 ほんと美味しいので作ってみてほしい。あとこうしたらもっと美味しくなるとか知っている人いたらぜひ教えてください。

「体験」を作るというデザインのお話

 最近は比較的暖かい日が続いている。コートを羽織る程度で丁度良いような、気持ちの良い日差しが射す小春日和であった。今年の冬は暖冬傾向にあるというが、去年よりもその傾向は強いように思える。その証拠にスキー場の雪が少ないというニュースを見た。確かに例年行くスキー場は雪が少なくそもそも開いていないようだ。これはスキーやスノーボードをするには新潟といった北陸や北海道に行くしかないのだろうか。一方で北海道でも雪が降らずに土埃が舞うといったニュースも見ているので、今年は滑れないと思ったほうが良いかもしれない。

 この三連休はふと見た駅の広告にあった建築系のデザイン展に行ってきた。
www.nmao.go.jp

 建築系には教養がないが、特に予習もせずに興味を惹かれたという理由で行ってきた。そもそも美術館で開かれる催事に対して教養なんてなにも持っていないのだが。
 これは「Impossible Architecture」 という、実現しなかった建築物に関する展示会である。最初はソビエト連邦にて技術的に当時作ることのできなかった建築物に始まり、コンペで選べれなかったが話題を呼んだ建築物、果てには記憶に新しい新国立競技場のザハ案などがあった。他にはこれまでの無機的な建築物に代わり、有機的な建築物を目指すといったものもあった。
 すべての建築物デザインにも言えるが、あくまで建築物は手段であり、それにより達成したい目的がある。例えば、ソビエト連邦のものでは自国の技術や社会主義を優れたものであるというプロパガンダがそれにあたる。有機的な建築物は今でいうSDGsの考え方に近いものが感じられた。

 これは以前の「デザイン思考」のセミナーの受け売りであるが、デザインとは外観のことではない。デザインとはそれがどのように使われるのか、使うことでどのような効果が得られるのか、といった「体験」を想像してそれに適した物を設計することであるといえる。それで初めて目に入る情報が外観なのであり、それは体験の入り口に過ぎない。この前行ったデザインの原画展でも思ったが、彼らは外観をデザインしているように見えがちだが、その裏には成果物がどのような体験を与えられるかまで細かなところまで気を配られている。

 職業柄、素材を作って売る仕事をしていることもあり、いわゆる「イイモノ」を作ることが求められている。一方で、モノの機能や性能などは上限に達し始めていることにも薄々気づいており、これまで通りのモノづくりでは成長できないであろうことも想像に難くない。そういったこともあり、これからはデザイン思考を取り入れて仕事をした方が良いかもしれないと思うところもあり、こういった展示会へ顔を出しているが、勉強の入り口として本を読むのも良いかもしれない。そう思って今日は帰りに本屋によってデザイン思考の本と、ほかに惹かれた本を2冊程度買った。積読が捗る日々であるが、しっかり消費せねば。

【積読1冊目】資本主義リアリズム

 つい先日に入力を増やそうというブログを書き、早速積読を一つ読んだ。読んだだけでは勿体ないなとふと思ったので、その中身の紹介と読んだ感想をブログにまとめていこうと思う。元々、このブログは備忘録として始めたのでちょうど良いだろう。


 今回はふと書店に立ち寄った時に目について買った「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

 本の帯にあった一文に目を引かれ、そのままレジに持ち込んだ。ちょうど買った時は「会社がなぜあんな酷い状態になってでも製品を売っているのか、その原因は資本主義にあるんじゃないか」という八つ当たりに近いことを思っていたことを覚えている。
 今の社会では企業の現在の事業というよりは、今後の事業方針とその実現可能性(あくまで出来るとは言っていない)によって株価が動くといったことを考えると、適当に耳障りの良いことを言っていれば周りが評価してくれるという実態の伴わない成長なのではないかと、そしてそれに巻き込まれているのではないかと思っている。もはや企業は良い印象を持っていることが重要である政治家のようになっている。その政治家は都合の良いマニフェストを挙げれば叩かれて実績を求められている辺り、ここ最近で評価軸が入れ替わってしまったのだろう。

 さて本書を読んだ感想であるが、前提知識がないこともあって結構難しかった。題名にもあるような、たまに日常に顔を出す「リアリズム」「新自由主義」などといった言葉から「ポスト・フォーディズム」「スターリニズム」など、(おそらく)経済学のバックグラウンドがないと理解の難しい言葉が特に注釈もなくわんさか出てくる。一方で、本書は専門書のようなお堅い書物ではなくエッセイ集であるため内容に反してサクサクと読める(むしろエッセイ集であるからこそ言葉の注釈がないのかもしれない)。また、現代社会を評論する際にはカフカといった文豪の作品や20世紀の名作映画などを引き合いに出し説明していることも多く、著者のマーク・フィッシャーの知識の幅広さに驚かされる。まあ私は小説にしろ映画にしろ、主に21世紀に入ってから作られたものを摂取することが多いので、その例えすら分からなかったのだが。やはり過去の名作を知るということは教養として必須なのかもしれない。


 本書で繰り返し述べられる「資本主義リアリズム」とは「資本主義以外の道はないという現実主義を受け入れること」と言い換えられる。正直私が何か述べるよりも後書きの方が当然わかりやすいので、一部を引用する。

特に二〇〇〇年代以降、このような牙を抜かれた左派の例には枚挙に暇がない。いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですか?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。(P.202)

資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務といて受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?(P.205-206)

 こういった現代社会において挙げられる問題を、それは社会が成長する為に必要な事だと蓋をされたものが多いが、取り上げているのが本書である。正直なところ、本書を自分の考えにまで噛み砕いて説明できるほど、まだ私は内容を理解できていない。これからも少しずつ経済系の本を読み、知識が増えたときにもう一度読みたいと思う。

 ここからはまとまっていない私の雑感だが、資本主義の代替案が想像できないというのは社会主義の敗北が大きな原因であることは間違いないだろう。資本家は自らの資本を増やしたいが無茶な要求を行うと労働者から突き上げられ、政治体制を転覆させて社会主義へ変えられかねない。だからこそ、資本家は労働者を労ってきた。それが社会主義国の多くはその政治体制が崩壊してしまった。そうなると労働者は政治体制を転覆させるにも資本主義以外の体制を持ち得ない事態となり、それによって資本家は労働者に対して多少無茶な要求を突き付けても実質的に問題にならないようになったのだろう。そして資本家は自らの自己実現を叶えていく一方で、労働者は現実を変えられないという無能感に陥って現実を受け入れざるをえない。そういった事態が「資本主義リアリズム」に繋がっているのだと思う。本書を読み進めて行くうちに、資本主義はそれ自身が進化することで新しい体制へと移行するのではないかと考えたが、これはどこかに書かれていたかどうかを覚えていない。人工知能などのシンギュラリティを迎えたとき、体制がどのように変わるのかを考えてみるのも面白いかもしれない。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 またここからは全く関係のない話だが、どのようなものにしろ「分からないものを分からないまま次へ進む」というのは非常に大事であると思う。例えば高校の化学では大学で習うような有機化学量子化学を習わないため、原理や法則はわからなくてもこの条件ではこうなるということを暗記する作業になる。自分の高校時代を思い出せば、アルケンへのハロゲン化水素の付加反応ではより水素が多く結合した炭素原子に水素が結合するというマルコフニコフ則はその最たる例であったと思う。一方で、このような「わからない」は何も知らない人に対して急に反応中間体のカルボカチオンが〜とか言っても寧ろ分からなくなる事の方が多いだろう。こういったときは「よく分からないけど、そうなんだ」と思ってやり過ごせば、そのうち必ずその謎が解ける。何もこの話は勉強だけではなく、小説や漫画のような物語でもそうだと思う。開示された設定の根拠が分からなくとも、それが伏線となってのちに回収される事もあるだろう。特に回収されずとも、物語そのものが面白ければその経験はもはや勝ちである。宇宙空間は空気がないから音が伝播しないはずなのにスター・ウォーズだとなんで聞こえるのかなんていうどうでもいい事でスター・ウォーズを楽しめない人はいないだろう。「俺の宇宙では聞こえるんだ」と監督が言っていたそうだし。この例はちょっと極端だが、本の中でそういった分からないことがでても挫折せずに読み進めて行きたい。今回の読書で改めてそう思った。

お酒やめたい、ではなくやめるという宣言。

「そういえば酒辞めるって言ってたのに飲んでるね」

 先週、上司にこう言われてしまった。やらかす度に酒をやめるといって、2週間くらいは飲まないけれど、結局は元に戻っている。意志が弱い。
 確かに今年に入ってから酒を飲む量が確実に増えていた。それは頻度の問題もあったが、明らかに酒を飲んだ時の自制が効いていなかったことも原因であろう。そのため、それまでも酒でやらかしたことはあったにしろ、今年はその回数が異常であったように思える。それは面倒な絡みをするだけであれば可愛いものの、他人と言い争うとか(それも面倒な絡みであるが)そういったものも多かった。酒が増えた原因はなんだろうか。自分でよく他人を誘って飲みに行くことが多かったと思うが、それだけであろうか。よくわからない。そういう気分だったのかもしれない。

 酒でやらかす回数が増えるに従って、その次の日に死にたくなる回数も増えていった。それは「Hangxiety」という症状である話を以前のブログで書いたが、まさにそれである。ただ二日酔いのせいというよりも、その時の話題や自分の話した内容に起因していることが多過ぎた。多分、他人にネタにされることも、自分で自分をネタにすることも、そのどちらにも疲れてしまったんだろうか。もうその辺りに生えている雑草の様に放置していてほしい。そういった後悔や死にたさを塗りつぶすほどの楽しみが自分には見出せていない。それでも、たまに会う友人との飲みは楽しかったりする事を考えると、疲れてしまったのは今勤めている会社の人間関係なのかもしれない。もう、飽きた。仕事内容というよりかは、もう人間関係を一新したい。会社から逃げ出したい。


 久し振りに日記としてのブログ更新をしようと思ったのは、永田カビさんの書いた「現実逃避をしていたらボロボロになった話」を読んだり、それを読んだ人の感想を見てしまったからだろう。何か、生きていることに対する遣る瀬無さを、誰かに伝えたかったのかもしれない。それは傷を舐め合う行為かもしれない。それでも別に良くて、ただこの息苦しさを感じているのが自分だけではない事をただただ知りたいだけ。知ったら何か良い方向に変わるかと言われれば、確実に変わることはない。ただ安心できるだけ。前の飲み会で、比較的年の近い人が暴飲暴食で内臓をやらかしている話を聞いて自分と似た人がいて安心したのと一緒である。同じ様な人がいるだけで救われるんだ。

 何か創作で誰かに響くことができたら格好良いなと思っていた。エッセイなんて特に読まなかったし、それに興味すら湧かなかった。でも「現実逃避をしていたらボロボロになった話」でもあった様に、エッセイというものは格好良いんだなって思った。自分の人生は何も特別なことはないものだけれど、別に他の人の人生が特別な訳もないんだ。ただ、伝えたいメッセージがあったりだとか、自分を受け入れるために綴っていたりだとか、そういった何らかの意図が特別なのかもしれない。そう考えると、基本的に物事はやるかやらないかの二択だと思っている自分が、そういった誰かに気持ちやら、思いやらを伝えようとしていないのはただの言い訳で、それは自分が一番嫌いなことだと気付いてしまった。そう、気付いてしまった。この、創作やらエッセイやら、そういった文字で誰かに響くものを書きたいというのは、まだリアルな人間関係の人たちには言えていない。せめてここで宣言して、何か楔を打ち込んでおきたいと思う。いつまで続くのかわからないし、覚えているかもわからないけど、そういう自分がいたことは覚えておきたい。

 何が自分にできるのだろうか。それは、さっき書いた創作の話もだけれど、仕事の話であったり、人生の話であったり、あらゆることに当て嵌まる。結局、ウダウダ言っているのは、自分の人生に自分が諦めきれていないんだ。現状が悪くないのは理解しつつ、まだ違うことができないかと思うだけで、何にも挑戦しない卑怯な諦め。このまま生きていくにしろ、なにかしらどこかで腹を括らなければ諦めだけが残るくだらない人生になりそうだ。

映画「JOKER」の感想と個人的な解釈

 はい、公開1週間以上経ってからやっとJOKERを見ましたのでブログを書いている次第です。JOKERはバットマンの敵くらいにしか知らないし、そもそもバットマンについてもジャスティス・リーグと公開日にやっていたダークナイトを見ただけで何にも知らない。バットマンって異常なタフさを持っているゴリマッチョという印象しかない。
 さて、そんな風にしか知らない映画を見に行く理由は「これ、汚い万引き家族だな?」という期待があったから。万引き家族はとてもいい映画で全てが良かった。そんな期待を胸に、仕事終わりに映画館へ駆け込み夜ご飯がわりのホットドッグをかきこみながら映画を見てました。



 最高でしたね。


 ゆっくりと丁寧に傷を抉り、塩を擦り込まれた後のJOKER登場のカタルシスが凄まじかった。ここまで後味の悪いカタルシスも中々ない。映画を見終わったときに後ろの大学生らしき人が「こんな観るのに疲れた映画は初めてだ」と言っていて、確かに精神的に疲れる映画であることは間違いない。でも一つ言わせてくれ。哭声の方が5千倍疲れるし、同じくらい面白いから見てね。


 初めの場面。閉店セールをやっている楽器屋の前で陽気なピエロが看板を持って宣伝していると、スラムに住むであろう少年たちに看板を奪われる。ピエロが追い掛けると少年たちは路地へ逃げ込み、追いついたと思った時に奪った看板でピエロの顔面を殴り、更に蹴って痛めつけてから金品を奪って去って行く。呻くピエロの絵を移しながら「JOKER」のタイトル。


 おっも。このピエロが主人公だよ。そしてゴッサムシティの治安わっる。


 主人公のアーサーは精神病を抱え、更にふとした時に笑いが意思とは無関係に出てしまう病(?)を持つ。アーサーが笑うのはラストシーンを除いて、決まって泣きそうな時に出ている。まるで泣きそうな自分を騙すようで痛々しかった。物語の初めでは、仕事があって、母がいて、コメディアンになるという夢があって、生活は確かに苦しいし、病気も抱えていたけれど、なんとか生活できていたアーサー。しかし物語が進むにつれて、仕事を失って同僚にも裏切られ、母との信用を失って自ら絆を断ちに行き、コメディアンになるという夢は大衆の笑い者になるという形で踏み躙られる。もともとアーサーを世界と繋げていた縁そのものが失われてしまった。

 地下鉄で身綺麗な格好をした若い三人の男に笑いが出てしまう持病で絡まれ、冒頭のシーンのように殴られ、蹴られた時に同僚から護身用に渡された銃で三人を殺してしまう。まだ、ここであれば戻れたかもしれない。でも、母親が書いた手紙を見てしまい、父親が今度の市長選に出るトーマス・ウェインであることが分かってしまう。当然、ウェインは(おそらく家政婦として働いていた)母親のことなど認知せず、アーサーは母親が養子縁組で引き取った子であることになっていることや、そのあとに母親とアーサーは付き合った男に暴力を振られ、母親は精神を病んだとして病院行きになったことをアーサーは知ってしまう。アーサーの中に父親(のような人)の記憶(ウェインはもちろん、母親と付き合っていた男)がないことや、その頃からアーサーは泣きもせず笑っていたということで、アーサーはこの頃からすでに狂い始めていたんだろうな。まあそんな諸々を知ってしまった上に、自分がコメディアンとしてクラブみたいなところのショーに出た時の映像がテレビで映されて笑い者として取り上げられてしまう。しかも、その番組はアーサーがコメディアンになろうとしたきっかけの一つである司会者のマレー本人が笑い者に仕立て上げていた。辛い。そんな精神状態で、もうまともではなかったんでしょう。劇中で脳卒中で倒れて入院していた母親を手に掛ける。そして母親が死んだことを聞きつけた同僚が家を訪ねてきたが、それは銃を渡したことを警察に隠すために口裏合わせしようとしに来ただけで、この同僚も殺してしまう。元々銃を渡した本人だし、仕事の雇い主に嘘を伝えていてアーサーが失職する原因の本人だからさ、まあそうだよね。ただそんな狂った状態でも、一緒に訪ねて来た他の同僚は自分に優しくしてくれていたということで見逃してしまうくらいには正常だったね。そして反響があったということでマレーの番組に呼ばれる。JOKERとして。


 見ていて辛かった。この辛さも苦しみも、最後のJOKERとしての登場で解放されるけど、この解放のされ方は好き嫌いがはっきり分かれそう。JOKERに共感できるか。共感にも色々あるけれど、仕事や病気といった様々な問題を抱えるアーサーに、貧困に埋もれて誰からの目にも入れないアーサーに、裕福な者たちの犠牲となったアーサーに。どんなアーサーに共感できるか。そしてJOKERになれるか。

 人は簡単に「こうすればいいのになぜしないのか」「そうなったのは自己責任」なんて言うけれど、それは余裕があって裕福な者たちからの何気無い言葉で、言われた方には礫が飛んできたも同然。そんなことができるのであれば、こうはなっていない。アーサーがどうしてそうなってしまったのか。物語の中ではアーサーは常に切り捨てられる弱者で、スラムのガキに、市の財政に、証券のリーマンに、同僚に、コメディアンに、何より実の父親に切り捨てられている。そこにアーサーの人格を見たものはいない。もちろん、母親にも見られていなかったからアーサーは手に掛けてしまった。そこにはアーサーの責任なんてないだろう。最後のマレーとの対談では、マレーは真っ当な価値観を持つ良い人なんだけれど、だからこそアーサーと向き合えずに殺された。そう、綺麗事とか倫理とか、理屈や正義なんてものに押し潰されて見えないものにされたアーサーにはそんな言葉全てが嘘に思えたんだろう。描かれなかったけれど、ゴッサムシティで暴動を起こしていたJOKERたちも、そんな押しつぶされて見えないものにされた人たちなんだろうな。


 JOKERになった人を救う方法なんてない。JOKERを救いたければ共にJOKERとして堕ちて、堕ち続けろ。


 見た人たちで議論が捗りそうな映画でした。

振り返りと「求められるもの」と「求めるもの」のお話

 先々週に見たHELLO WORLDの考察ブログ、どうやら一時期はGoogle検索の3番目ぐらいには出ていたようで、ブログを初めて以来すごいアクセス数になっていました。半年ぐらい前に書いたコードギアスのやつも結構反響あったみたいだけれど、HELLO WORLDは考察必須なSF映画ということでみんな調べていたみたいですね。すごい。映画見た後に原作小説も読んで大体自分の考察で訂正するところなくない?っていう謎の自信に溢れており、特に記事の更新等は考えていないです。


 でも、せっかくたくさんアクセスされたので、アクセス数ってやっぱり指数関数的に減少していくのかなって気になっていたことを調べてみました。その結果がこちら。

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記事投稿日数とアクセス数

 投稿から3日目が最もアクセス数が多かったので1,2日目の数字は消してみました。すると、月曜日→金曜日までは綺麗に指数関数の近似式に乗ってくれるんですね。ただ投稿8日目(土曜日)からはそれまでの近似式から外れて増えてますね。おそらく、映画を見て考察ブログを見ようした人の数が平日では大きく変動しない一方、土日ではその数が大きく増えることが原因でしょうか。だいたい予想通りの結果が得られて満足です。こういう話に詳しい人とどういう予測式書けばいいのか話せると凄い楽しそう。やっぱり仮説と実証の繰り返しこそが科学の真髄で、それが楽しいんですよね。


 さて、先週はアド・アストラとジョン・ウィック パラベラムの2本を見た訳ですが、同じ映画であっても客が求めるものが違えば評価が全然違うんだなと実感するばかり。

 アド・アストラはハードSFを装った家族愛に関する映画で、ストーリーは凹凸なく盛り上がりにかけるために「心拍数が80以上にならない」という作中のフレーズを使って酷評する人がいる一方、父親と息子、その息子と妻の関係から感動して好評している人もいるという感じで評価が二分されている。個人的には前者の感想で、作中のストーリーや設定などのあらが凄い気になってのめり込めなかった派です。チェーホフの銃がよく創作界隈では話に上がるけれど、やっぱりストーリーに関係のない話や設定は全てぶったぎっていったほうがいい。特に映画なんて2時間しか枠がない訳で、その中でストーリーと関係のない話をされても面白くないし、アド・アストラについて言えば必要なところだけを取れば30分くらいで終わりそうだし、そのおかげで宇宙の虚無を実感できる映画になっている。あとラストシーンのブラピのアレ、ちょっとあのプロット考えて通した人は反省してほしい。まあ、綺麗な宇宙のCGを観たい人が観ればいいんじゃないかな。

 対してジョン・ウィック。本作は3本目になる訳ですけど、こちらは言ってしまえばストーリーはどうでもいいんですよ。一作目なんて「亡くなった妻から送られた仔犬を殺し、愛車をパクったマフィアのバカ息子を殺すために引退した伝説の殺し屋がマフィアを潰す話」で、二作目は「マフィアを潰しておきながら闇社会に復帰する気のない伝説の殺し屋が、昔の誓約を楯に殺しを依頼してきたマフィアを潰す話」で、この三作目は「二作目で殺しが許されない殺し屋御用達のホテル内でマフィアのトップを殺したら追放されて全ての殺し屋から狙われる話」です。何言ってんだこいつ。まあ要はこの作品はキアヌ・リーヴス演じるジョン・ウィックのトンデモ暗殺芸を見る為だけのアクション映画なわけですね。正直、一作目からストーリーが冗長で詰まらなかったとは言え、ガンガン派手なアクションシーンがこれでもかと襲いかかってくるので、めちゃくちゃにはちゃめちゃに面白い映画です。凄い。この映画の何が凄いかって、ジョン・ウィックは必ず敵にヘッドショット入れるまで戦うし、敵も敵で腹とか肩に銃弾一発受けても普通に襲いかかってくるそのバイタリティのヤバさ。なんだこの世界。さらに作中世界の暗殺者の数が異常に多く、もはや全員が闇世界の住人なんだと思うし、街中で人が殺されても一般人が特に騒がない異常さがその錯覚に拍車をかけていく。一方で死んだ動物は最初のバカ息子が殺した仔犬だけで、それ以降死んでいない。むしろ、犬が殺されかけて激情してマフィア一つ潰しかけるぐらい愛犬家が多い。この世界、絶対に人より犬の方が命の価値が重い。そんなアクション映画なんですが、こちらはアクションを期待して観に言っている人の期待を全く裏切らないので評価が高い。中にはストーリーに苦言を呈している人もいるけど、母数的には少なくてみんなそんなこと分かっていながら、キアヌ・リーヴスの繰り広げるアクションに熱中している。


 この二作を比較すると、「監督が伝えたいこと」と「観客が作品に求めること」が合致しないとどんなに力を入れてもダメなんだなっていうのが凄い実感できる。そりゃ、肉料理を期待して入った店が魚料理しか出さない店だったらがっかりするよね。その点、最初に戻るけどHELLO WORLDなんか青春映画に見せかけたガチのハードSFだったから、逆にこれだけ好評価になっているっていうのは意外だとちょっと思っている。まあアニメで野崎まど脚本という点でそういうのを期待していった人が多いだろうし、そもそも3Dアニメの時点で見に行く層が限られていると思うのでそんなものかとも思う。

映画「HELLO WORLD」の考察 正書版

 流石に前のブログでは説明がごちゃごちゃしていたので、自分の整理も兼ねてもう一度考察をして正書してみる。

 [前回更新分]
qf4149.hatenablog.com


 理解を優先してラストシーンから考えて行きましょう。一行瑠璃は劇中で堅書直実と同様の手法で堅書直実のALLTAREからのサルベージを行なっていることは精神同調率を示すゲージから示唆されている。またこのラストシーンで個人としてはっきり描かれたのは一行瑠璃と堅書直実だけで、直実は脳死から復活しているためにこの描写からALLTAREからのサルベージを行ったのは瑠璃(もしくは瑠璃が作成したAI?)であることが確定する。

 ここでALLTAREについて振り返ってみると、ALLTAREとは量子記憶装置の名称であり、京都という都市全体で起きた事象の全録(パンフレットより)である。つまり、ALLTAREで再現されたデータ類は基本的に全て起きた事象であることを示している。

 この二つから、堅書直実が十年後の自分、先生と会う前の世界(分かりにくいのでオリジナルと以後呼称)の年表は以下のように考えられる。


【2027年】
 ・堅書直実が一行瑠璃と付き合う
  同年の花火大会にて落雷事故によって一行瑠璃が脳死状態に陥る

【2027〜37年】
 ・堅書直実は京斗大学の千古教授の研究発表(ALLTAREデータを用いた脳死マウスの復活)を聞き、
  ALLTAREを用いた一行瑠璃の脳死状態からの回復を目的として行動を開始する

 ・堅書直実が「クロニクル京都(ALLTAREを用いた都市の全事象の記録プロジェクト)」に参加、
  千古教授の元で研究員として出世し、システム管理者の権限を得る

 ・堅書直実はALLTAREへのダイヴシステムを完成させるが、その実験の最中に脊髄損傷の事故に遭い、左下肢麻痺となる。

【2037年】
 ・堅書直実がALLTAREへダイヴして一行瑠璃のサルベージを実行、一行瑠璃は脳死状態から回復する

 ・このサルベージのALLTAREへのダイヴ、もしくはサルベージ後のALLTAREの欠損データ修復作業など、
  何かしらの原因により堅書直実は脳死状態に陥る

【2037〜??年】
 堅書直実のデスクにある教授宛の手紙を千古教授が発見する(EDのワンシーン、おそらくここにラストシーンとの補完描写があると推定)
 千古教授とそのラボメンバーは堅書直実が一行瑠璃を救う為に行ったことを知る
 これ以降のどこかで一行瑠璃が堅書直実の計画を知り、同様の方法で堅書直実を救うことを決断する

【20??年】
 計画を実現すべく、一行瑠璃が堅書直実をサルベージするためにALLTAREへ三本足のカラスとしてダイヴする
 ダイヴ先は2037年のALLTAREで堅書直実が2027年にダイヴする前の記録時空間、
 もしくは2037年の堅書直実がダイヴした2027年の記録時空間(オリジナルのALLTARE内のALTTARE)のどちらか


 ということが出来事が、ALLTAREのデータ内で堅書直実と先生が会う前に起こったことである。そのため、本作はこのオリジナル世界、ALTTARE内の2037年の世界、ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界という三重の世界構造を理解することが必要不可欠であろう。ちなみに余談だけど、一行瑠璃のダイヴ先がどちらかなのか分からないのは、
①先生はカラスのことを元から知っている口振りであることから、オリジナルの2037年で用意したものと推定されるので、こちらから入った方が良い(気がする)
②ALLTARE内の2027年の堅書直実は先生が伏見稲荷にダイヴするよりも前に赤いオーロラとカラスを目撃していることから、カラスは堅書直実よりも早い段階でダイヴしている
という辺りが矛盾している気がするからである。そもそもオリジナル世界からダイヴしたALLTARE内2037年の世界から更にダイヴしたALLTARE内2027年に直接ダイヴするのは流石に無茶すぎる気がするから迷っているところではある。この辺りは考えてもわからないので放置しておこう。

 さて、一行瑠璃がALLTARE内へ三本足のカラスとしてダイヴしたのを当然のように話しているけれど、これはちゃんと理由がある。【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】にて先生が瑠璃をサルベージして世界が崩壊した後の論理物理干渉野(パンフレットより引用、崩壊した世界に神社だけがあった空間のこと)にて、堅書直実に三本足のカラスが「一行瑠璃を取り戻したいか」と問いかけているシーンがある。それまでに先生はカラスを道具のように扱っていたので、先生自身カラスに意思があると思っていなかった節がある。恐らくはオリジナル世界でも先生は自らALLTARE世界に道具としてカラスを持ち込んでいたと思われるので、このカラスに成り代わっていることが推測される。また【ALLTARE内の2037年の世界】でも三本足のカラスはあの異常事態の中でも堅書直実と一行瑠璃を元の世界へ還すための正解を知っていた。【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】でも【ALLTARE内の2037年の世界】でも異質な存在であるあのカラスはそのさらなる上位世界からやってきたと考えるのが妥当である。モチーフの話をすれば、この三本足のカラスは八咫烏のことを示していると思われるが、八咫烏は導きの神である。最初のシーンでは堅書直実を先生が現れる伏見稲荷へと、論理物理干渉野では堅書直実をALLTARE内の2037年の一行瑠璃の元へと、ALLTARE内の2037年では堅書直実と一行瑠璃を元の世界へとカラスが導いており、八咫烏の導きの神としての性質をこれでもかと見せている。加えて堅書直実の精神状態を同調させるという意味での導きもその中に含まれていると思われる。ALLTAREへのダイヴの際に姿形が変えられることは先生から説明(腕を機械に変えるなど実践もした)があったため、一行瑠璃が三本足のカラスとしてダイヴしたのも矛盾なく説明できる。
 ではなぜ一行瑠璃はオリジナル世界から二回もダイヴしなければならなかったのか。それは脳死状態からの回復には、脳死状態直前の精神状態をALLTARE内で再現してそのデータをサルベージする必要があるからである(劇中での説明あり)。そして脳死となった堅書直実は、2037年のALLTARE内の2027年へのダイヴが原因となってその状態となったからであろう(こっちは推測)。ただし、堅書直実はALLTARE内の2027年のダイヴそのものは成功していたが、その後処理を間違えたために脳死状態となったという仮説の方が有力であろう。これは先生が瑠璃のサルベージの際には脳死状態に陥った落雷事故が起きるまで待っていたこと、堅書直美がオリジナル世界にサルベージされたのは京都駅の階段上で自分と握手して【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】の堅書直実が元の世界へ戻る際に光へと変化したことから推測できる。この辺りの詳細についてはスピンオフアニメの方で説明があるかもしれない。

 ちなみに三本足のカラスは一行瑠璃であるとして説明を続けてきたけど、これ本当は一行瑠璃のアバターではなく、一行瑠璃(とラボメンバー)が作成した人工知能である可能性も捨てきれない。ALLTARE内の2037年の世界にて、同一座標に同一人物が複数存在するということをALLTAREがエラーとして認識して、具体的には一行瑠璃を排除しようとしていた。ちなみに同一世界に同一人物が複数存在することは、【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】にて先生と堅書直実を排除しようとシステムは作動しなかったので問題はないように思えるが、【ALLTARE内の2037年の世界】では一行瑠璃が元の世界へ還った後に先生と堅書直実がエラー対象として認識されていたので、潜在的な危険性はありそう。オリジナル世界にて、堅書直実の回復を喜ぶ人間が結構な数描かれていたので、このサルベージは綿密に計画を立てていたのであろうし、そう考えるとわずかな危険も排除しようと人工知能を使うのも選択肢として十分にありえるかな、と。ただ、人間ではなく人工知能を用いるというのは臨機応変に対応が求められる場においてかなりのリスクもありそうだし、このメンバーはかなり議論したんだろうなぁ。


 そんなこんなで、HELLO WORLDとは堅書直実と先生のW主人公で一行瑠璃を助ける映画と思わせておきながら、実は一行瑠璃が自分を助けてくれた堅書直実を助け出すというストーリーなのでした。しかもオリジナル世界の堅書直美と【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】の堅書直実と一行瑠璃の三人を全て救うという超絶難易度のサルベージを成功させた一行瑠璃は描かれていなかったけど、相当に優秀な人だったんだろうな。

 そしてこの考察が正解だとすると、堅書直実と一行瑠璃って実は言うと一緒の時間を過ごした時間が極端に少なく、どちらかが起きている時にはどちらかは眠っているといういわばずっと片想いの時間が続く訳で、相当切ないストーリーだと思う。最初に堅書直実が一行瑠璃をサルベージした時、堅書直実は独りでほぼ狂気に染まりながら研究を続けていただろうし、一行瑠璃が堅書直実をサルベージする時には仲間がいただろうけど、自分のことをただひたすら十年間一人で救おうとした人のことを考えていただろうし、なんだこのカップル。これから末長く幸せになれよ。


 もはや自分がこの話の主人公を最後の一瞬しか出番のなかった成長した一行瑠璃として認識してるところがあるな。まあまだ色々思うところはあるし、仮説じみた考えもあるけれどこれ以上増やすともっと分からなくなりそうだなので、今回はこれまでにしておきましょう。