考の証

要は健忘録

お酒やめたい、ではなくやめるという宣言。

「そういえば酒辞めるって言ってたのに飲んでるね」

 先週、上司にこう言われてしまった。やらかす度に酒をやめるといって、2週間くらいは飲まないけれど、結局は元に戻っている。意志が弱い。
 確かに今年に入ってから酒を飲む量が確実に増えていた。それは頻度の問題もあったが、明らかに酒を飲んだ時の自制が効いていなかったことも原因であろう。そのため、それまでも酒でやらかしたことはあったにしろ、今年はその回数が異常であったように思える。それは面倒な絡みをするだけであれば可愛いものの、他人と言い争うとか(それも面倒な絡みであるが)そういったものも多かった。酒が増えた原因はなんだろうか。自分でよく他人を誘って飲みに行くことが多かったと思うが、それだけであろうか。よくわからない。そういう気分だったのかもしれない。

 酒でやらかす回数が増えるに従って、その次の日に死にたくなる回数も増えていった。それは「Hangxiety」という症状である話を以前のブログで書いたが、まさにそれである。ただ二日酔いのせいというよりも、その時の話題や自分の話した内容に起因していることが多過ぎた。多分、他人にネタにされることも、自分で自分をネタにすることも、そのどちらにも疲れてしまったんだろうか。もうその辺りに生えている雑草の様に放置していてほしい。そういった後悔や死にたさを塗りつぶすほどの楽しみが自分には見出せていない。それでも、たまに会う友人との飲みは楽しかったりする事を考えると、疲れてしまったのは今勤めている会社の人間関係なのかもしれない。もう、飽きた。仕事内容というよりかは、もう人間関係を一新したい。会社から逃げ出したい。


 久し振りに日記としてのブログ更新をしようと思ったのは、永田カビさんの書いた「現実逃避をしていたらボロボロになった話」を読んだり、それを読んだ人の感想を見てしまったからだろう。何か、生きていることに対する遣る瀬無さを、誰かに伝えたかったのかもしれない。それは傷を舐め合う行為かもしれない。それでも別に良くて、ただこの息苦しさを感じているのが自分だけではない事をただただ知りたいだけ。知ったら何か良い方向に変わるかと言われれば、確実に変わることはない。ただ安心できるだけ。前の飲み会で、比較的年の近い人が暴飲暴食で内臓をやらかしている話を聞いて自分と似た人がいて安心したのと一緒である。同じ様な人がいるだけで救われるんだ。

 何か創作で誰かに響くことができたら格好良いなと思っていた。エッセイなんて特に読まなかったし、それに興味すら湧かなかった。でも「現実逃避をしていたらボロボロになった話」でもあった様に、エッセイというものは格好良いんだなって思った。自分の人生は何も特別なことはないものだけれど、別に他の人の人生が特別な訳もないんだ。ただ、伝えたいメッセージがあったりだとか、自分を受け入れるために綴っていたりだとか、そういった何らかの意図が特別なのかもしれない。そう考えると、基本的に物事はやるかやらないかの二択だと思っている自分が、そういった誰かに気持ちやら、思いやらを伝えようとしていないのはただの言い訳で、それは自分が一番嫌いなことだと気付いてしまった。そう、気付いてしまった。この、創作やらエッセイやら、そういった文字で誰かに響くものを書きたいというのは、まだリアルな人間関係の人たちには言えていない。せめてここで宣言して、何か楔を打ち込んでおきたいと思う。いつまで続くのかわからないし、覚えているかもわからないけど、そういう自分がいたことは覚えておきたい。

 何が自分にできるのだろうか。それは、さっき書いた創作の話もだけれど、仕事の話であったり、人生の話であったり、あらゆることに当て嵌まる。結局、ウダウダ言っているのは、自分の人生に自分が諦めきれていないんだ。現状が悪くないのは理解しつつ、まだ違うことができないかと思うだけで、何にも挑戦しない卑怯な諦め。このまま生きていくにしろ、なにかしらどこかで腹を括らなければ諦めだけが残るくだらない人生になりそうだ。