考の証

要は健忘録

「1%の努力」の追記

 昨日書いたエントリ、何気なく書いてたら著者本人から反応があったことにビビり、更にめちゃくちゃアクセスが伸びていることに驚いている。

qf4149.hatenablog.com

 本人から反応があったので、せっかくなので自分の考えもまとめてみようと思う。それにしても、まずは他の人の話を参考にしようと思ってこのツイートの返信部分を見てみたけど、これだけ色々リプライがあるのは大変そうだなって他人事ながら思ってしまった。


 話に入る前に、実はいうと前回のエントリの内容が言葉足らずであることに気付いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 また、最後にひろゆきは「弱者の味方」と宣言していることや、幼少期の暮らしやフランスのホームレスの話を読んでいると、「うしろめたさの人類学」を思い出した。結局、私たちは生活を豊かにしていくにつれ、生活の一部を少しずつ外注するようになり、結果として人間関係すらも外注してお金で解決してしまい、人との距離が離れるからこそその隙間に孤独に悩む人がいる。「うしろめたさの人類学」はエチオピアと日本を行き来した比文化人類学者が書いているが、人との距離が近ければうしろめたさを感じ、貧しい人や物乞いの子供にお金や物を恵むことが当然になるし、精神を病んだ人を排斥せずに地域のコミュニティに受け入れていくと書かれていた。現状、日本ではそういった社会にはならないだろうが、そういった社会を目指すためにどうするのか、そういった話をひろゆきから聞いてみたいと思った。

 太字で示した「そういった社会」が指す言葉は「物乞いにお金や物を恵むことが当然~」といった具体例ではなく、「貧しい人や精神を病んだ人のような特定の人を排斥しない、他人に対してうしろめたさを感じる社会」という抽象的なことを指していたのだが、改めて読み返してみるとどう考えてもそう読み取れない。別に物を書いて飯を食っている訳ではないので気にする必要はないのかもしれない。だが大学自体の恩師から「誰にとっても一義的に読めるような資料を作れ」と言われたことを今でも覚えている身として、いまだにできていないと反省するばかりだ。元々文章をうまく書けるようになりたいと思い始めたブログなので頑張っていきたい。


 さてそういった話ではあったのだが、頂いたコメントの話では「物乞いにお金を与えるのは効率が良すぎて、教育を与えて仕事でお金を稼ぐ選択が損する」というのは本当だろうかと色々反論を考えてみているが、これを間違いだとはほぼ言えないという結論になってしまった。例えば「物乞いで生きていくのは生活水準が低いため、より質の高い生活を送るには物乞いを脱するしかない」というのは正論ではあるが、それは真っ当に仕事をして稼いでいる人間の考えである。それで充分であると当人が思っている、もしくはそう思っても行動に移せるほどの意思が持てないということもありえる。それで生きていけるのだから、もうそれでよいと言われれば終わってしまう。更に極端な例なので適切であるかは少し微妙だと思うが「ナウル共和国」という国があることを思い出してしまい、更に否定できなくなってしまった。

 ただこういった話を考えるときにいつも気に留めておきたいのは、大体普通の人たちも含めて「誰も彼も頑張って生きていこうとまでは思っていない」ということである。この「生きていこう」は色々なものに置き換えていける。勉強、部活、仕事、趣味、恋愛等など。きっと、大体の人は特に考えずに「生きているから生きている」のだと思っている。そういった意味では、特に向上心などを持たなくても最低限の生活が送れるような社会システム(例えばベーシックインカムのようなセーフティネット)を構築するのは非常に重要ではないだろうか。そんなものを取り入れれば怠ける人(その極端な例が前述のナウル共和国)が出るという反対意見もあるだろうが、別にそれはそれでいいと思っている。それよりも重要なのは、現状に不満を感じる人たちに対してやりたいことをやれるようにする「機会の平等」を与えることである。生きていく上で、親や環境、遺伝子が絶対に関わってくるとは本書にもある(P.021-022)が、その環境を整えて機会の平等を与えるという意味でシステムを構築するのもまた間違いではないと思う。私個人としても、一応企業勤めでそれなりに稼いでいるとはいえ、業界が今後縮小することを思えば、いつ自分が無職になってしまうか心配なのでそういったシステムがあると非常にありがたいと思っている。
 この姿勢は「寄生している」ということになるのだろうか。これまでの人類史ですべての人が経済発展や社会貢献のために生きているのであれば、今頃もっと世界は良くなっていると思うので、大体の人は世の流れに身を任せて、長いものに巻かれて生きていたのだと思う。それは「寄生」なのだろか。例えば、このブログを書くために使っているPCに、私はまったく貢献していないと自信を持って言える。ただ稼いだお金で買っただけである。多くの革新的な業績を納めたごく少数の人たちのおかげで私たちは質の高い生活を送れている。間違っても、この生活を送れているのは自分のおかげではない。もうこの21世紀、完全に自らの能力や努力だけで生活できている人間などいやしない。

 と、なんだかまとまりがなくなってきてしまったのでひとまず終わってみる。無理やりまとめれば、私は条件付きではあるけれど、しっかりとした社会システムを築いてお金上げてもいいんじゃない?と考えているというお話でした。そういったシステム構築のためには、「他人に対してうしろめたさを感じる距離感」なり、「他人に対する想像力を持つ」なり、そういった社会規範が必要なのだろうと思う。
 あとこのエントリではひろゆきの引用RTについて肯定したり否定したりしているが、世の中完全に白黒つけられるものなんて存在しないと思っているので、そういったゆるふわ感を大事にして生きていきたい。