考の証

要は健忘録

春はあけぼのというが春眠は暁を覚えない

 先日、ずっと真夜中でいいのに。の東名阪ツアーの「まだまだ偽りでありんす。」のライブに参戦してきました。良かったです。めちゃくちゃ迫力あってかっこよかった。「ハゼ馳せる果てまで」とか「黒く黒く塗り潰す僕ら」みたいに初めて聞いた曲もあって楽しかったね。いつかアルバムとかで収録されること期待しておきたい。でもやっぱり「秒針を噛む」と「脳裏上のクラッカー」がよかった。めっちゃ盛り上がったし最後のアンコールのみんなで歌うのもよかった。次のライブにはしっかり鍋とおたまを持って行かないとね。


 他の出来事と言えば、鬼滅の刃の映画を見てきました。昨日一話が放映されたけど、本当に泣かせてくる。最初の家族との会話とかが丁寧に描かれてたところからもう後の悲劇を想像して涙腺に来る。ちょくちょくある鬼滅の謎のギャグはテイストが薄まっていたけど、あれ以上濃くしすぎると違和感あるしまあいい感じ。それにしても一話目の冨岡さんカッコよすぎる。この人が真っ当に輝いていた一番の話といっても過言ではないと思う。再登場したときには「俺は嫌われていない」という絶賛コミュ障オーラ放出していたし、この人がこんなに喋ったり内面を語ることってオリジンが出たときぐらいでしょ。というか、冨岡さんは大事なことを喋ってなさすぎる。柱合会議での切腹話もめちゃくちゃ感動できるだけど、冨岡さんの内面が分からなさすぎてどういう人なんだろうって想像を膨らませていたら、犬に噛まれてワッチャーってなってても違和感ないキャラだっただなんて・・・。そんな冨岡さん、好きなんだけどね。にしても、一話の「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」のシーンはかなりネタになってたし、漫画初期は残念打切りコースと全員が予想していたと思う。まさかここまで人気が出てこんな格好いいアニメになっていると予想できた人がいただろうか。今改めて一話目見ると普通に面白いんだけど、こう、吾峠先生の世界観にどっぷり浸かったからなんだろうな。こんな風に自分の世界観に引きずりこむ力、凄いと思う。それと水の呼吸と型の演出、すごい格好よかった。いやぁ、善逸の雷の呼吸とか煉獄さんの火の呼吸、冨岡さんの十壱の型凪とかの演出が今から凄く楽しみ。安心と安定のufotableですね、脱税してたみたいだけど。


 冬のように寒い日もあるけれど、少しずつ春が近づいて来ているのがわかる。4月になって新しいスーツに身を包んだ人も多く見かけ、またこの季節が来たなと思い馳せる。気付けば4年も経ってしまった。辞めるつもりで転職活動をしてみた時期もあったけれど、それなりに評価されてしまうと抜け出す機会を逸してしまうことがわかった。離れて欲しくない人には恥ずかしくてもちゃんと思いを伝えることが大切なのかもしれない、関係ないけど。
 最近は読書をサボっていたせいか、積読が20冊近くあることに気付き、徐々に減らしていこうと努力してみている。今は森博嗣の「なにものにもこだわらない」を読んでいる。森博嗣の小説は「すべてがFになる」しか読んだことはないけれど、「実験的経験」が凄く面白かったことを覚えていてこの本の購入を決めた。まだ半分程度しか読めていないけれど、「拘り」というものは感情に基づくもので論理的ではなく、拘ることは便利でコストを下げられるものだけれど新しいものを受けつけることができなくなるので、「拘り」を持たずに自分の頭を使って考えていきましょうという内容に近い。この内容は以前聞いたinovationの手法というセミナーに近いものがあり、やはり頭のいい人っていうのはだいたい同じものを考えるのかな、と感心している。この「拘り」というものは「先入観」という言葉に置き換えられるように思える。毎回勝負事の前に願掛けを行うという拘りは、願掛けを行えば勝負がうまく行くという先入観とも言えるし、服を買うなら服屋という拘りは他の店ではまともな服が買えないという先入観とも言える(・・・言えるか?)。そういった「拘り」や「先入観」というものは、通常の生活を送る上では頭を動かさずに判断することができるのでローコストで様々なことをこなせるが、代わりに革新的なものを産むことが出来ないという訳である。その道の知識を多く身につけた者のみが革新的なものを産み出せるというものは大概が先入観であるもので、もしそうであるならばノーベル賞を取る人たちはだいたい故人であるだろう。これ以上の感想は、まあ読んだ後にまとめてみる。

 それにしても、この本を読み始めてから自分とは何かと考えたときに、確固たるアイデンティティのなさに恐怖を抱いた。いや、もしかしたら恐怖を抱けていないのかもしれない。自分が自分であるという証明をせずとも日々の暮らしを送れているところからすると必要のないものである。書類上の証明はちゃんとしているので安心はしてほしい。言いたいことは、過去との連続性を確保していない自分という存在を認められるかということである。数年前のこと、去年のこと、下手したら昨日のことすらうまく思い出せないような自分という存在は、果たして昨日と同じ自分なのだろうか。そんなことを悩んでいるが、そもそもアイデンティティの確立が必要というのは「拘り」や「先入観」かもしれないし、そもそも生活に困ってはいないし、過去は終わったことで未来は先の話だから現在のことだけを考えていればいいという格言もあることだし、もうこのままで良いのかもしれない。嫌に楽観的で、享楽的で、虚無的であるけれど、もうそんな感じでいいやって思う。成るように成る。成るようにしか成らない。そんなもんだ。


 暖かくなると桜が咲き、世間では花見だなんだと騒がしくなるけれど、桜ってそんな綺麗なものかと冷めた目で見てしまう。茶色とピンクの組み合わせは悪くないが、鮮やかなピンクになることには散り散りになり、茶色とピンクと赤と緑のごちゃまぜの汚い色の塊だろう。そう思うが、近くに寄ってみると確かに綺麗な花をしている。小さな花が寄り添って咲き誇る姿は確かに美しかった。