考の証

要は健忘録

『万引き家族』見ました。

 久しぶりに映画を見た感想をブログに書く。もはや感想と言えるか怪しくなってしまったが、明日から仕事なのに寝ずにウンウン考えてしまった。寝ないといけないし、もういっかと諦めの境地で投稿する。

 先日、カンヌ映画祭パルム・ドール賞を受賞した万引き家族が先行上映するということをネットで目にした。話題となっていた上、普段はこの前見たランペイジのような娯楽作品ばかりを見る自分が気になっていた作品だったので今日友人を誘って映画館へ赴いた。感想で間違ったことを書きたくないので、キーボードを叩く前に色々調べようとしたが、思ったことを書くのに間違ったもクソもないかと思い直してそのまま書いてしまえというのがいまの心境である。

 あらすじ等は省略してしまおう。そこは絶対的に作品情報の方が正しい。

 この作品を、万引き家族を見て私が思ったことは、言葉を汚くするがいかにクズであったとしても、彼らもまた私たちと同じ血肉の通う人間であるのだということである。映画では、万引きをしつつ幸せそうに暮らす家族が描かれている。生活そのものは全く親近感も何も湧かなかったが、彼らの何気ない会話やふとした一言というのは、本当に私たちの日常とさほど変わりがないと思わせる。そういう描写があったからこそ、彼らも私たちと同じ幸せに生きたいと願う同じ人間であると感じやすいのだろう。
 物語が進み、最後には幸せに暮らした家族は離散し、誰一人として共に暮らしていない。それを万引きなんかしてるからだと断罪してしまうのは簡単なのだが、では実際彼らはどういう風に生きていゆけば幸せになれたんだろうか。たとえ、犯罪をしていたとしても、嘘を重ねていたとしても、確かに彼らは幸せに家族として生きていた。きっと、普通の手段では彼らは幸せに生きていくことができなかったんだろう。どうやって生きていけば幸せになれたのか、しばらくは答えのない問いにモヤモヤとした日々が続きそうだ。

 と、そんなことを考えているのだが、そんなことはおいといて、映画としての話をしたい。この映画、本当に日常パートの描き方がうまい。すでに書いたが、何気ない会話が本当に何気なく行われており、スクリーンに写っている物語は現実にあるものではないかと思わせてくれる。夕食でみんなで鍋をつつきながら世間話をしているところ、家族の愚痴をいっていたときに当人が帰ってきたので慌ててやめるところ、パート同士で話をしている時の何気ない冗談を話しているところ。どんなパートをとっても本当にありそうな日常だと思わせる。果たして、彼らは演技をしているのか、本当にそういう風に生きているんじゃないかと思う。そういったことを思わせるのは演技だけでなく設定のもあるのだろう。息子の祥太は襖を寝室がわりにしているのだが(ドラえもんは上段に寝ているが、彼は下段だ)、そこではライトのついたヘルメットをかぶったり、自分の宝物(劇中では母親がクリーニング屋のパート中に客のスラックスから撮ったヘアピンが新しく加わる)を大事に並べたりするのだが、本当に小学生の男の子がしそうなことばかりである。さらに彼は空き地の捨てられた車を秘密基地にしていたり、本当に色々詰め込まれていている。また、この映画にはほとんどBGMがついておらず、BGMが流れるのは場面が変わったりするときなのだが、その回数はとても少ない。なのに、目も耳も飽きずに映画を見ていて、BGMが流れたときに「そう言えば今までなかったなぁ」なんて思い出したりするのだ。あまり上手く説明できていない気もするが、そういった丁寧に作られた日常パートがあるからこそ、この映画のメッセージが伝わってくる気がする。後、個人的にやっぱり樹木希林さんが好きだなだとか、本当にリリー・フランキーはしょうもないダメ親父役が多いとか、息子役の城桧吏は将来イケメンになるだろうなとか思った。あと松岡茉優は胸でかかった。劇中でリリーが言っていたけど、男はみんなおっぱいが好きだからしょうがないね。


 ここから先は何回も文章を書いては消し、書いては消しを繰り返したが、なぜクズでも人間であると思ったかを書こうとしてもどうしても映画で完結できないのは、私が初めからそういう思想を持っていたからだろうか。そういう思想を持っていたからこそ、この映画を見ていい映画だと思ったのだろうか。もう面倒だから思ったままここからは文章にしてしまおうということでもう消さずに取り止めのない話となりました。

 家族を万引きといった悪事をさせながらも、幸せに生きて生き、最後には離散する。その中には人の弱さが描かれている。誰もが悪くて、誰もが悪くないのだと思う。私たちが彼らを悪人であると断罪するのは簡単なのだが、ではどうしたらよかったのかという問いに答えられる人は少ないだろう。というか、一人もいないのではないだろうか。

 人は簡単に人を断罪する。ネットやテレビで垂れ流されるニュースを見てはこの人はこうだあの人はどうだと批評する。ネットやテレビの情報なんて一面でしかない上に真実であるかどうか私たちは知らない。しかも趣味の悪いことにテレビなんて実像に迫るためという言い訳を使って卒業アルバムだとかのプライベートを容易に暴き出してエンターテイメントとして消費する。そこに自分と同じ血肉通った人間がいるなんて思ってもいない。事件の当事者のことなんてこれっぽっちも考えてなどいない。そしてたった一つの事件から都合の良い事実だけを抜き出して世の中の批評に使ったりする人もいるのだから、世の中には大変な仕事もあるものだと感心してしまう。この映画でも万引き家族がテレビで報道されるシーンが少しだけあるのだが、報道の裏にはそれぞれの人のストーリーが、私たちと変わらない生活があるのだということを教えてくれている・・・のかもしれない。

 人はどんな人でも生きていくことが認められている。このどんな人という言葉に疑問がある人には聞きたい。
「その線引きは公正に決められたものか、そしてその線引きは不変なものか、最後に、それを思うのは自分が生きていくことが認められているからではないか。」
まず、線引きが公正かどうかは決めるのが人間であるがゆえに主観が入る。決めた当初は正しいことでも後から振り返れば間違っていたことなど、歴史を知っていればごまんと出てくる。ロボトミー手術なんてまさにその一例と言えるだろう。そして線引きが不変であるかは間違いなく不変などではない。派遣労働法が専門的な仕事から一般的な仕事にまで広がっているのは線引きが変わってしまったと言えるだろう。最後に自分が認められているというのは、絶対的なものではない。いつなぜといった具体的な話はできないが、線がある以上越える可能性はあり、そして線そのものが自分を越える可能性があることを失念してはいないだろうか。そういったことを常日頃から思っているせいか、私はこの万引き家族の物語を、悪事を働いていたのだから当然の結末だなどという簡単な結論には至れないのである。そしてどうしたらよかったのだろうと悩んでしまう。基本的に、理想とは実現しないものだろう。その理想に近づくことはできる。現実を直視し、どうすればよくなるのだろうかという思考実験は無駄ではないと私は信じたい。

【追記】
次の日、起きると新しい事に気付いたのでここまで読んだ人は是非次のエントリも見てほしい。
http://qf4149.hatenablog.com/entry/2018/06/04/081519