考の証

要は健忘録

タイムパラドクスゴーストライターとは何だったのか ~過去編~

 こんにちは。前回の記事でタイパラについて十二分に吐き出して満足した*1と思った翌日から再びタイパラについて考え出してしまった悲しい存在が私です。

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 さて、今回の記事はタイムパラドクスゴーストライターを読む上で作者の過去作を読むことで理解度がぐ~んと上がることが分かりましたので早速筆を執っている次第です。今回参照するのは以下の2作品です。ちなみにこの記事を読むときにはできればぼくらのQの1巻だけでも読んでいただけると私と同じ様な衝撃を得られると思うので、時間とお金が余っている方はぜひお願いいたします。

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 この2作品にはタイパラの原型となる要素がふんだんに盛り込まれており、特にぼくらのQを読むとタイパラがなぜあのような構成だったのかを理解するのに非常に役立ちます。今回はこの2作品を通してタイムパラドクスゴーストライターがどういう物語であったのかを解き明かしていきたいと思います。


 ぼくらのQは2017年から裏サンデーで連載された全4巻からなる作品です。この作品の主人公はある日、質問を出す球体、Qに憑りつかれてしまいますが、作中で出てくる主要人物もまたQに憑りつかれています。それぞれの質問の出題テーマは異なっており、「生命のQ」「死のQ」「正義のQ」「自我のQ」の4つの球体が出てきます。この球体の出す答えに『大正解』すると憑りつかれた人間にそれぞれのQに関連した力が与えられます。「生命のQ」には再生の力、「死のQ」には風化の力、「正義のQ」にはベクトル操作の力*2、「自我のQ」には自我を奪う力が与えられます。また質問に答えるごとにその力は強化され、最後の質問*3に答えることが出来るとチートと言える力が手に入ります。物語は生命のQを持つ主人公が正義のQを持つ女刑事とタッグを組んで死のQを持つ連続殺人犯とその仲間である自我のQを持つ者と戦うというものになっています。
 ここまで読んでみなさんは「タイパラに似ているところある?」と思われるかと思いますが、これは主人公サイドの視点の物語であるからです。ぼくらのQにはもう一つの視点、世界自体に芽生えた自我と呼べる超越的な存在が出てきます。この超越存在は女性の容姿をしていますので仮に【彼女】としますが、【彼女】は自らが生まれた理由を知るための手段として地球を幾度も創造してシミュレートをしてきました*4。そのシミュレートのアクセントとして、【彼女】はQを生み出して地球へ送り込み、第1問を答えた者に自らの生まれた意味、第0問を出します。ぼくらのQとは、主人公を初めとする球体に憑りつかれた人々がQを解き明かす物語であると同時に、Qを生み出した【彼女】が答えを見つける物語でもあります。

 これがぼくらのQの物語の概要です。これからはこの漫画におけるキャラやストーリーの関係について考えます。主人公は普通の高校生*5ですが、過去に幼馴染の女の子に命を救われています。この幼馴染の女の子が主人公サイドの物語におけるヒロインですが、Qのアレコレにも関与しないので物語の最初と最後にしかでてきません。そういう意味では超越存在である【彼女】は主人公から第0問の回答を得て未来へ歩み始めますので、Qに関するストーリー上のヒロインは【彼女】と言えるかもしれません。また、ストーリー自体はQを持つ4人がそれぞれ敵対して戦っていく話であり、その中で彼らはそれぞれのQの根源に気付いていくという縦軸があります。これらのことから、以下の様に物語は整理できます。

①主人公サイドの物語では幼馴染がヒロインである。
②Qサイドの物語では超越存在である【彼女】がヒロインである。
③それぞれの物語をくっつける舞台として、Qを持つ4人の戦いが存在する。

 さて、それでは次の試作神話に入りましょう。試作神話は2019年にジャンプ+(ジャンプルーキー?)で掲載された読切作品です。寝癖が個性的な主人公は学校で奇行で有名ではあるものの学業スポーツ万能の美少女である榎本卯月が気になっています。大方の人たちはあまりの奇行ぶりに榎本さんから距離を置きたがっていますが、周りの目を気にせず自分のしたいことを貫く榎本さんに主人公は憧れており、彼女と友達になるために屋上で一人でいるときに話しかけようとすると「アンゴリグリンゴ~」と空に叫んでいるところを目撃します。何をしているのか聞くと先ほどの呪文は「改変後の世界において自分の記憶を引き継ぐコマンド」であり、
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ということから、この世界にも飽きたので次の世界へ向かおうとしているようです*6。その後主人公はせっかく近づけた榎本さんの機嫌を損ねてしまったがために世界改変に巻き込まれていきますが、先ほどの呪文である「アンゴリグリンゴ~」と空に叫んでいたので記憶を引き継いでおり、あらゆる世界線で榎本さんに会いに行きます。田中は死にます。しかし、榎本さんに会いに行く頃には彼女は世界に飽きてしまったのでボツにして次の世界線へ行ってしまうのですが、主人公は懲りずに何度も会いに行きます。田中は何度も死にます。最後に主人公は榎本さんに元の退屈な世界でも毎日好きな人(榎本さん)に学校で会えるだけで幸せなんだという告白をして元の世界に戻ります。この物語は以下の様に整理できます。

①主人公は平凡な男子高校生であり、ヒロインは同じ学校に通う超越存在である。
②物語は主人公とヒロインの関係性で描かれており、特に別れていない。

 みなさんは既にお分りになったのではないでしょうか。そう、試作神話でも世界へのアクセス権限を有する超越的な存在が出てきており、その存在がヒロインでもあります。この作品ではぼくらのQでヒロインの影があまりに薄かったことから、(元からヒロイン味はありましたが)超越存在そのものをヒロインに据えて物語が展開してきたのではないかと考えられます。またこの二作品を通してみると、平凡な主人公が非日常的な存在と遭遇した後にそれを生み出した超越存在と出会って理解し合う・和解する・仲良くなるといった要素が見えてきます。

 ここまでの話を考慮してタイムパラドクスゴーストライターを眺めてみると以下の符号が見えてきます。

①キャラの立ち位置
 主人公  ⇒ 平凡である佐々木君*7
 超越存在 ⇒ フューチャー君
 ヒロイン ⇒ 藍野伊月
②物語
 主人公である佐々木君が非日常的な事態に巻き込まれて超越存在と出会い、理解してヒロインを共に救いに行く

 どうでしょうか。これまでの2作品に共通する要素が見えてきました。その一方で共通しない項目として、タイパラでは超越存在とヒロインは決定的に分かれており、同一存在、もしくはそれに近しい存在としても描かれていません。このことからどちらと言えば、試作神話では超越存在をヒロインに寄せに行きましたが、今回はヒロインを単独で活かす形で物語を描こうとしてことが分かります。

 さて、ここからは私の想像になりますが、タイムパラドクスゴーストライターではこれまでの物語での等号である「超越存在=ヒロイン」という図式が成り立たないことから、「超越存在=主人公」という形で物語を展開していきたかったのではないでしょうか。
 前回の記事でも解説したように、10話に出てきたジャンプ妖怪おじさんがあまりに異彩を放っていたことをみなさん覚えていると思いますが、このおじさんはフューチャー君を除いて作中で唯一藍野伊月を「伊月ちゃん」と呼んだキャラであることから、「フューチャー君(超越存在)=ジャンプ妖怪おじさん」の図式が成り立ちます。一方でこのおじさんは藍野伊月の「世界中のみんなを楽しませる漫画を描く!」という宣言を受けた後に「私も伊月ちゃんと同じ様に新しい道を歩むことにしました」という書置きを残して”どこか”へ去っています。これらを考えると、ジャンプ妖怪おじさんは「全人類を楽しませる漫画を描くために”どこか”へ去っていった」と読めること、そしてこのおじさんは超越存在であるフューチャー君であるとも想定されることから、ジャンプ妖怪おじさんは何らかの手段を使って人生のやり直しを図り、その結果が佐々木君なのではないでしょうか。その証拠にこのおじさんの顔、佐々木君に似てますよね?
 そう、この仮説が成り立つのであれば「フューチャー君(超越存在)」は「ジャンプ妖怪おじさん」であり、また「佐々木君」でもあるということになります。またこれまでの二つの作品でそれぞれ「超越存在」のキャラの位置づけが変わっていることからも、今回は新しい取り組みとしての「超越存在=主人公」という物語を描きたかったのではないでしょうか。

 この仮説、結構個人的には有力ではないかと考えていますが、「だったらどういう物語にする予定だったの?」という答えはまだ見つけられそうにありません。それは未来編として次回のネタに取っておきましょう。それでは今回はこれにて終わります。

⇒to be continued...
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*1:当然全ての要素について言及することはできていません。枝葉末節、骨までしゃぶり尽そうとすればおそらく2倍くらいの文量になったことでしょう。それほどタイムパラドクスゴーストライターは読み尽せるんです。多分、2巻が出たらまた話してるんじゃないですかね…。

*2:なぜ正義がベクトルになるのか、と不思議がると思います。正義とは「人の信念」というスカラー量が「特定の対象に向く」ことからベクトル操作に繋がります。作中では人の正義以外にも雪が降る、地球は回るといった世界に流れる様々な力にそれぞれの正義が宿るという回答が得られます。こういう捻りを加えた表現って私は好きです。

*3:最初の質問は「第【4桁】問、~~~」と大きな数字から始まり、最後の質問となる第四問目は「第1問、何故人は生きる?」といった生命、死、正義、自我がなぜそのように存在するのかといった根源に近いものとなる。そのためQが進むごとに難易度は高くなっていくが、そこに比例して能力も強くなっていきます。ちなみに主人公は最初の方で第三問をクリアして能力的な伸び幅は小さくなりますがその再生力を活かす方向で物語は進みます。

*4:某作品の人力スーパーコンピュータを思い出しますが、そういう訳ではないです。

*5:多分高校生です。結構細かいセリフとか描写を見落とす自信があるので言い切れないんですけど、主人公が通う学校も学校としか表記されていないので…。

*6:みなさんも”分かり”ましたか?

*7:能力値としては平凡かもしれないが、徹夜を繰り返したりキャベツやカップ麺で生活しても体を壊さなかったり、ホワイトナイト連載という重責に潰れないメンタルを持つという意味では平凡と呼べない。

タイムパラドクスゴーストライターとは何だったのか

 タイムパラドクスゴーストライターとは、週刊少年ジャンプで2020年24号から39号まで連載された全14話のジャンル不明な概念漫画です*1。本漫画は連載1話目から読者各位に困惑を呼ぶとともに、連載期間中Twitterで最も言及された作品と言っても過言ではないでしょう。

 「これだけ主人公である佐々木君に対して憎悪とも呼べる反感があるのは作者が伝えたい事と読者に伝わっている事に乖離があるのではないか。」

 連載4話目にして未だに1話目の話を擦られ続ける佐々木君の話を見てそう思ってしまったが為に、私はタイムパラドクスゴーストライターという正体不明の沼に足をとられて沈んでしまいました。それからというもの、月曜0時からジャンプを読んでタイパラについて考え、起きてからもあらゆる空いた時間があるとタイパラについて考える生活を3ヶ月近くしていた。リアルタイムで読んでいた時の感想については下記リンクから辿れるので笑いながらでも読んでほしい。
togetter.com
 そして連載の終わったはずの今週でさえもタイパラについて考えてしまっている。シャワーを浴びながらタイパラについて考えていたので、もはやシャワーを浴びるとタイパラのことを考えるようになってしまった。辛い。

 そういう訳で『タイムパラドクスゴーストライターとは何だったのか』というテーマでブログを書き進めているところである。とは言っても、本当に何だったのかということを語るのは非常に難しいので、ひとまずは各話を振り返っていきたい。

タイパラを読む心構え

 タイムパラドクスゴーストライターとは、やがてその意味に気付く物語である。各話の展開について、後から振り返った時にその真の意味を知ることになる。真の意味、といっても書いてある通りであるのがタイパラの凄いところだ*2。そう、タイパラは全てが明確に描写されている一方で描写されたときにその意味を理解することが非常に困難なのである。
 そこで役に立つのがセンター試験での現代文を解く読解力である。センター試験の現代文で満点を取る方法は「書かれていることを正確に読み解くこと」である。書かれていることを読み落としてはいけないのは当然であるが、それ以上に書かれている以上に深く考えることも厳禁である。タイパラでは深く考えた瞬間に色々な描写に躓いて先に進めなくなる。というのも、物語のストーリー及び伏線がそのまま描かれる一方、それを彩るフレーバーやノイズが非常に多い*3。また、佐々木君や藍野伊月に対する自分自身の感情すらも読み込むうえでは邪魔になってしまう。つまり、タイパラを読むときには自らの感情をフラットにした上で的確にノイズを削ぎ落としてストーリーの本質を掴まなければならない。このことから私は「タイパラの読解=化石掘り」という概念を提唱している。余分な場所を削ぎ落として物語の骨格を見出すのがタイパラの読み方なのだ*4

 そういう訳で、今回は各話で何を読めていればよいのか(何を読まなくてよかったのか)という観点で綴っていく。

第1話 週刊時空をジャンプ!

 伝説の1話。最初にジャンプという雑誌や漫画家になる方法の説明がありますが、特に読む必要はありません。なぜならタイパラは漫画家漫画ではないからです。これは非常に重要な概念なので覚えておいてください。まず初めに菊瀬編集とのやり取りから未来のジャンプが届くまでに理解すべき情報は以下のみです。他の事も気になると思います、気にしないで下さい。

 1.佐々木君には作家性がなくて空っぽなので話は面白くない*5が、他の能力は批判されていない。
 2.佐々木君はみんなが楽しめる王道漫画を描きたい。
 3.菊瀬編集の言っていることは正しい(が、覚えていなくてもよい)*6

 さて、夢を諦めかけた佐々木君の下に雷と共に未来のジャンプが送られてきます。そこに載っていたホワイトナイトを読んで感銘を受け外に駆け出しますが、もう一度読もうと部屋に戻ると置いた場所からジャンプは冷蔵庫の横へ落ちてしまい、佐々木君はジャンプを見つけられませんでした。徹夜していたので仕方ないですね。そのため、彼は未来のジャンプを自らの頭の中からあふれ出た白昼夢であると思ってしまい、ホワイトナイトを描いてしまいます。ここで佐々木君は一度だけ読んだ連載1話を読切版へと大胆に変換しますが、これは佐々木君が前述1で批判されなかった能力、つまり話を構築する力や絵、コマ割りなどの能力に申し分ないことを証明しています*7。ちなみに佐々木君はこの時点で二徹してますが、佐々木君はこれから努力の方向や効率ではなく時間でのみ勝負を仕掛けています。これは佐々木君が漫画家としての能力を十二分に持っていることから成長という縦軸が取れなかったことの裏返しであると言えます*8

 また少し話は変わりますが、作品を通してホワイトナイトに関する描写が薄くなっています。作中で読んだ人が面白くて泣くという意味の分からないふわふわした描写しかされませんが、これはタイパラが漫画家漫画ではないからですホワイトナイトとはマクガフィン*9であり、タイパラにおいては佐々木君が藍野伊月と交流する為に出てきただけの存在です*10。それ以上でも以下でもないので「ホワイトナイトはみんなが楽しんで読める超人気漫画なんだな」っていうことを分かっていれば問題ありません。

 まだ1話で語るべきことは多くありますが、終わる気がしないので一旦ここで締めます。 

第2話 始まってしまった物語

 後戻りできないポイントである回。ここで佐々木は未来のジャンプが本当に届いており、ホワイトナイトを盗作してしまったことに気付きます*11。ちなみにSFの説明も入りますが特に読まなくてもいいです。タイパラはSF漫画でもないので…。

 そして「後戻りできないポイントはここ」「今なら引き返せる」として電子レンジのコードを切ろうとした佐々木君は編集からの電話に出て連載ネームの打合せを優先してしまいました。この打合せにて佐々木君は編集の説得とファンレターによってホワイトナイトの連載をすることを初めて考えます。ここで佐々木君が人気漫画家の座にしがみついたなどと非難されていましたが、佐々木哲平の名で世に出してしまったので現実的に佐々木君が描くしか選択肢がないこと、またホワイトナイトの続きを読んで名作であることを再認識したことから、この名作を読者に届けないのは裏切りであると考えた末の選択と言えます*12。この辺りは1話の「みんなが楽しめる漫画を描きたい」という佐々木君の意思が捻じれて発露しているようにも思えます。

第3話 同類

 ホワイトナイトの作者である藍野伊月が現れた回*13。ここでの藍野伊月の「あなたにしか描けない、伝えられないもの。そんなものはない空っぽな人間ですか」という問答は佐々木君にとってはそれはマイナスなことである一方で、藍野伊月にとっては圧倒的なまでにプラスであり、藍野伊月はそれこそを信念にしている作家です。だから佐々木君は自分が空っぽな人間であることに苦しみ、せめてと張った虚勢こそが藍野伊月の求めていた答えに結びついてしまいます。その後佐々木君は釈然としないまま会話を続けていきますが、それはその答えが本気で正しいとまでは思っていない、もしくは藍野伊月のことを正しく理解できていないためです。二人は同じ場所に立ちながら全く逆の向きに立っていたんですね。今でこそそう読めますが、当時その読み方が出来るかと言われれば無理です。お分りでしょうか、これがやがてその意味を知る物語です。
 ちなみに藍野伊月は佐々木君が同類であると確信して、ホワイトナイトを託す宣言をしてそのまま一人満足して帰っていきます。藍野伊月はちょっと変な天才なのでいいんです、可愛いですしね。

第4話 贋作

 ホワイトナイト連載のため体制を整えたところ、アシスタントとして藍野伊月が現れる回。藍野伊月以外の3人はフェードアウトするので覚えなくていいです*14。また、4話冒頭の佐々木君の気付いた「あること」は「真相を伝えると藍野伊月を傷付け、最悪の場合漫画を描くのをやめてしまう」ということであることが示されていますが、これについては明確な気付く描写がない事、また特に進展ないまま延々と引っ張られるために本気でうんざりするので考えない方が良いです*15
 4話の本題として漫画家漫画のような連載システムの紹介、アシスタントのデジタル作画などの話がありますが、タイパラは漫画家漫画ではないので意味はありません。更に佐々木君はホワイトナイトの絵について悩んでいますが、この絵に対する悩みも意味はありません。強いて言えば、佐々木君がホワイトナイトを描くに辺りまだ心の奥底では納得できていないことが絵への違和感として表れており、この違和感を解消するために本当の作者である藍野伊月から禊を受ける必要な工程というのが相応しいでしょう*16。未来の作者である藍野伊月が原稿に満足していないことに気付いた佐々木君はこのままでは出せないと原稿を素手で引きちぎりますが、彼の腱鞘炎が酷くならないかが私は心配です*17。腱鞘炎が酷いときは字を書くのすら無理なので、その状態で50ページ近い紙をぶち破る佐々木君は凄いんだよな。

 ちなみにタイパラではセリフの吹き出しの特殊効果がつけられることが多々あり、よくあるのはセリフに対してフキダシの縁が筆で不穏なテイストなものが主です。他には、3話の藍野伊月の「空っぽな人間ですか?」ではフキダシが完全透明に、4話の「完璧ですねこりゃ!」はフキダシが半透明になっており、前者は空っぽを強調して後者では見え透いた嘘という意味を持っていますが、フキダシを透明にする手法はこれ以降出てきてはいません。

第5話 本物の偽物

 佐々木君の禊が行われる回。引き続き絵について悩む佐々木君ですが、入稿とかトレースとかを理解する必要はないです。そして現れる藍野伊月は謎なセリフを吐いてきますが*18、重要なのは藍野伊月からホワイトナイトを自由に描いて下さいと言われたことです。それによって佐々木君は雑念を払ってただ「みんなを楽しませたい」という思いが詰まったホワイトナイトをその思想に則って描けるようになります。なので本質としては「誰の絵でもよい」んです。「本物を真似する」という考えそのものが「みんなを楽しませたい」という思いを汚してしまうから佐々木君は自然に描ける自分の絵で描くだけなんです*19
 ちなみに、この話で編集はキャラ書き直しについて「締め切りまで9日間しかない」と猛反対しており、佐々木君の熱意に押されて朝までに書き上げることを条件として提示していますが、次に編集が原稿を見る描写が描かれるのは9日後の朝なので、正直ここのやり取りはあまり意味が分かりません。次の日の朝に何らかの気付きがなければもう1回目の原稿で行くよって話かと思ってたんですが、9日後…?ってなるのは私が漫画家に詳しくないからかもしれません。この後も編集の挙動はよく分からないものになっていますが、タイパラは漫画家漫画ではないので…。

第6話 ストップ!

 ホワイトナイトの連載が始まる回*20。この回は佐々木君は自分の絵をアイノイツキのホワイトナイトと比較して下に見ているんですが、そうなるとなぜ佐々木君がトレースしていないかと躓くかもしれませんが、それは前話の禊と思想の話が答えになりますのでご容赦ください。
 この回では他に、藍野伊月が手塚賞入選を果たしてみんなで焼き肉を食べに行きます。ここでアシスタントの一人である五十嵐から身の上話を伝えられますが、特にこれ以降言及されることはないので放置して大丈夫です*21。そして佐々木君は藍野伊月から「連載って大変ですか?」と聞かれてから連載作家にマイナス印象を与えないよう「楽しいよ」と伝えるとともに正月、節分、花見とイベントを楽しむ描写が続きます。漫画は?だから漫画家漫画ではないので。
 そして未来のジャンプが届き始めて1年が経ったとき、佐々木君の電子レンジに届くはずのジャンプが届かないのでした。

第7話 タイムパラドックスゴーストライター

 「まさか絵だけじゃなく…物語の続きも俺が描くしかないのか!?」「せやで、それが普通や。」となる回です。1号分飛ばして届いたジャンプに載っていたのはホワイトナイトではなく、作者であるアイノイツキの訃報。色々考える佐々木君に「ダッダッダダッフューチャーサンダー!」とか言って届くジャンプの贈り主、フューチャー君のメッセージ。そして読者は1話エピローグは佐々木君ではなく藍野伊月のためにあったものなのだと、その真の意味を知ることになります。
 7話でも色々情報が明かされていますが、この辺りの話は次回にも続くのでそちらで整理をしましょう。ちなみにこの話の最後は「継続」の鏡文字で1話とは白黒が反転しています。後ほど分かりますが、この継続は「(フューチャー君が)この世界線を継続するか否か」、鏡文字は「佐々木君を見つめる存在(つまりフューチャー君)がいること」を示していると考えられます。

第8話 メッセージ

 √144とは何か、何もわからない回。扉絵はいい感じですよね。この話でフューチャー君が佐々木君に色々指示を出してきてますが、フューチャー君はオリジナルの世界線(フューチャー君介入前の世界)で知りえるはずのない情報(藍野伊月の新連載、富くじ)について知っていることから、フューチャー君は世界を何回かやり直していることが分かります*22。これまでの話を考えると、フューチャー君が佐々木君に未来のジャンプを送っていたのは、佐々木君にホワイトナイトを描いてもらうためであり、つまりこのホワイトナイト盗作劇はフューチャー君によるものであることが明かされました。
 その一方で、このときフューチャー君は佐々木君のあらゆる質問に対してまともに答えずに自らの願いのみを伝えています。それでも佐々木君は勝手に頑張ってくれるんだから良い操り人形なんですよね。選ばれるのも納得。ちなみに話に出てきた佐々木君の借金問題はこれ以降全く出てこないので考えないでください*23。タイパラを読むとはそういうことです。

第9話 白紙の続き

 突然人相が変わる回。あまりに隈がはっきりしているのでスポーツ選手のアイブラックのように思えてします。ちなみにこの回はホワイトナイトを一言一句、コマ割りすら変えずに連載するうえで最も強敵となる編集は全く仕事していなかったことが分かる回でもあります*24。ただそんな編集でも佐々木君オリジナルの46話についてはコメントをするようで、佐々木君の実力がまだまだなことが分かります。まだ46話に至るまでには9~10話ほどかかりますので、締め切りも考慮して2ヶ月間でどうにかするのでしょう。そして地味に佐々木君の作画技術が褒められた後に佐々木君の師匠の話が出てきますが、一体どんな人物で、どうかかわる予定だったんでしょうか。2巻を待ちましょう。
 ブラック佐々木君との葛藤に苛まれながらも徹夜で頑張る佐々木君、46話どうなるの?って思っていると半年経ってスルーされます。おおよそ佐々木君オリジナルになって5~6話くらい過ぎているはずですが、その評価は全く出てこないまま藍野伊月が新連載を開始して勝負するぞ!って感じで次回へ続きます。困惑しかない。

第10話 藍野伊月

 唯一佐々木君視点ではない回。46話だけでなく勝負の行く末すらもお預けを食らいながら、ジャンプ妖怪おじさんを眺める回でもある。「面白漫画を描いて世界中のみんなを楽しませるの!」と明るく宣言する藍野伊月に対して妖怪は自分もそう願いつつ漫画を描いていたけど叶わなかったこと、それでも幸せであり楽しんで描いてほしいという言葉を藍野伊月に残して去ってしまいます。この妖怪が何者であるのかは全くわかりません*25が、このやり取りは藍野伊月のオリジンとなります。
 そして作中で1話の次に擦られた「透明な傑作」。これもホワイトナイトと同様でそれ自体を深く掘り下げることはありません。藍野伊月は「全人類が楽しめる漫画」として「誰にも嫌われない漫画」を目指しています。そしてそれを実現したホワイトナイトを描いた佐々木君と話すことで目指していた方向性が正しいことを確信してしまいました。だから3話は藍野伊月にとってのイベントであり、佐々木君にとってのイベントは4話以降に尺を改めて取ることになったんですね。このように改めて読み返すと意味合いが変わるのがタイムパラドクスゴーストライターです。こういうストーリーに関する書き込みは緻密に敷かれていますので無限に発見があります。
 そうして現在に戻ると藍野伊月のANIMAは30話連続1位であることが明かされ、ホワイトナイトは完膚なきまでに負けていることがさらっと流されます。また編集は藍野伊月のアシスタントの状況等も知らないようでほんと何も仕事していないんだなって思う一方、佐々木君と藍野伊月の担当という事実に可哀想だなって思ってしまいます。
 そしてそのまま藍野伊月は死の源流に捉えられました。藍野伊月は自らの居場所を世界に見出せなかった少女であり、居場所を見つける方法として全人類が楽しめる漫画を描いています。しかし、「透明な傑作」を描く過程で己を完全に殺してしまった結果、彼女は自らの存在意義すらも消してしまったのです。これは「過労死」とかではない「概念死」であり、最近のジャンプ流に言えば「散体」です。周りから見たら死んでしまったようにしか見えませんが、「透明な傑作」を実現したことによる昇天なのでそのあたりも「散体」にそっくりです。こうして藍野伊月の死の源流、そしてそれを導いた「透明な傑作」が明かされました。佐々木君は…?

第11話 勝敗

 佐々木君視点の回。46話以降も地味に順位を落としているといいつつ、2ヶ月後のANIMA連載あたりではまだ2位を保つ。もうここまで来ると慣れたもので、描写がないのは漫画家漫画だからということで納得できますね。そしてANIMAに勝てるネームができた頃に藍野伊月の状態を知って電話をする佐々木君。この辺りでも藍野伊月は佐々木君よりも健康そうに見えますし、やはり過労死ではなくて散体なんだなと実感できます。
 そして藍野伊月の死を聞いてフューチャー君にキレ散らかす佐々木君。そりゃ周りから見たら過労死にしか見えませんので仕方がありません。そうすると佐々木君は冷蔵庫の中に消えていきました。

第12話 未完の世界

 「時空の狭間」或いは「物語の空白のページ」の回。フューチャー君はここで佐々木君に真実を伝えますが、ここのセリフからフューチャー君の世界介入の権限と自由度が恐ろしく高いことが分かります。藍野伊月の死を止める為に取った手段は、入院やカウンセリング、他の人間を使った説得や漫画を描けない環境へ閉じ込めるなどなど。「しかし止められなかった」のシーンでは佐々木君と共に藍野伊月の死亡時の姿を確認しています。そのため、フューチャー君はいわゆる世界ループではなく、任意の時点からの【運命拒絶(セーブ&リセット)】を使える上に様々な事象への介入手段を持っていると考える方が良いでしょう。つまり、1つの世界線を最後までこなさずとも気に入らない展開になったらすぐ戻ってやり直せばいいんです。実際、フューチャー君の中で佐々木君にホワイトナイトを描かせることは絶対事項であり、懸念されるあらゆる事象を排除して行われた劇がこの1話から11話の物語ということになります。2話目にして佐々木君が嘆いていた「後戻りできないポイントはどこだ!?」というセリフが意味深ですね。佐々木君が後戻りするためのあらゆるポイントはフューチャー君によって丁寧につぶされたと言ってもいいでしょう。佐々木君に対して感じていた私たちの違和感もこの際全てフューチャー君に投げてしまいたくなります。また、佐々木君が選ばれた理由は2029年に週刊少年ジャンプに読切を掲載させ、藍野伊月のスランプを克服させる原因を作ったためとされてます。佐々木君は藍野伊月と同類であるとフューチャー君は考えていますが、この辺りは3話でも述べたように佐々木君と藍野伊月では同じ場所に立ちながら見ている景色が違うことが示されていましたので、連載が続けばその違いも描かれたかもしれません*26
 さて、このフューチャー君の盗作による藍野伊月の挫折は目論見を外し、ホワイトナイトによるANIMAの敗北は佐々木君の力不足であることにより失敗に終わりました。自身の力も残り僅かとなってしまった為にフューチャー君は世界を停止させることで物語を未完とし、藍野伊月を保存する手段を取ろうとします。それに「やめろ!それじゃ死んでいるのと同じだ!」と反対する佐々木君のセリフはタイパラ中で最も共感できるものとなっています。そんなこんなで最後の選択を託された佐々木君は元の世界へと帰還するのでした。

 ちなみにこのフューチャー君、「それが親心なのだ」と言っている辺り、やはりジャンプ妖怪おじさんと関連していることが示唆されています*27。元から劇中作の登場人物であるせいか、フューチャー君はメタ的な発言が多い。「人の『想像する力』が生んだ幽霊だ」「とある作家によって生み出された物語に必要だったキャラクターに過ぎない」などという発言に連なっているため「君に理解してもらうためには少々時間が足りない」というのはタイパラが打ち切りに遭うこと言っているのかと思ってしまう。なんにせよ、妖怪とフューチャー君、√144などは2巻にて解説が待たれている。

第13話 Writer

 止まった時の中で藍野伊月を越える漫画を描く佐々木君を見る回。今読み返して気付いたが、46話以降を描き直すとなるとANIMAまだ連載してないな…?
 796日目までホワイトナイトを描き続けた佐々木君。これまでインプットしていなかったことに恐怖を覚える。2411目で完成したホワイトナイトを持って時を動かそうとするが、佐々木君は「まだやれるのでは?」と描き続けることを選択する。3175日目にして5回目のホワイトナイト完結を迎えてから、佐々木君は「ホワイトナイト」を超える作品を描くためにオリジナル長編を描き始めました。そして12472日目には18作目を完結させる。この前後にて佐々木君の目の描き方が違うため、この間に何も伝えることのない空っぽな作家が藍野伊月へ届けたいメッセージを見つけたのでしょう。
 つまり、ここで佐々木君はもう自らを「空っぽではない」と宣言している訳です。3話目の藍野伊月とのやり取りの中、藍野伊月は自らの言説の証明を夢見ましたが、佐々木君は藍野伊月に同調しつつも完全についていくことはできていませんでした。これは佐々木君が自ら空っぽであることや作家性やメッセージが必要なのかと悩んでいた答えとして、「透明な傑作」は相応しくなかったということでしょう。佐々木君はアイノイツキと同じ高みに達した時、佐々木君は「透明な傑作」に別れを告げて自らの答えへ歩き出していきます。

最終話 あの頃

 時を戻した佐々木君が藍野伊月に会いに行く回。佐々木君はホワイトナイトの46話以前の世界に来ているかと思いきや、そのあと藍野伊月が「最近のホワイトナイトは面白くない」というため、一体どの時間軸に戻ってきたのかさっぱりわからない。もし46話以前の世界なら連載始まる前に「これならANIMAに勝てる」と勝負を仕掛ける佐々木君は大人げない。
 そして佐々木君は読んでほしいネームを藍野伊月に託します*28。それを読んだ藍野伊月は「あれこそ「全人類が楽しめる漫画」ですよ!」と褒めたたえ、その領域には至れないと諦めて「透明な傑作」を目指すことをやめると言います。そして藍野伊月は「透明な傑作」を求めていたのは自分が嫌われるのが怖かったからであると認識し、純粋に漫画を描くことを楽しんでいた原点を思い出し、楽しんで描くことを夢とすることとしました*29。一方で、そんな藍野伊月に佐々木君は「あれは全人類が楽しめる漫画ではない」ではなく*30、誰からも愛せる漫画を作ることはできないと言います。そして描いた漫画はたった一人の誰かに届くだけでもよくて、自分がまず楽しんで描く幸せを持つことが大事なんだと言って藍野伊月も同意します。そうして二人はそれぞれ10年後も漫画家を続けているところで終わりを迎えます。藍野伊月は可愛いですね。

 さて、ここまで読んで皆さん気付いたでしょうか。そう、菊瀬編集の言葉は絶対的に正しかったのです。佐々木君は地元に帰って漫画を描き続けることで読切掲載までに至り、その作品は藍野伊月のスランプを克服するきっかけとなります。また結局のところ、佐々木君のいう「みんなの楽しめる王道漫画」というのは「透明な傑作」を否定する上で間接的に否定された結果となります。佐々木君の思い描いていた「みんなの楽しめる王道漫画」なんてなかったんですよね。悲しい。
 一方で「自分が楽しんで描く」「誰か一人に届いたらいい」ということからも読者という存在を意識せずに自分が描きたいものを描き続けることが大切という結論となっています。それは商業誌に連載する作家としてどうなの?タイパラとは、読者のための漫画家漫画ではなく、漫画家のための漫画家漫画だったのでしょうか。私は漫画家でも編集者でもないのでわかりません。


 ひとまずタイパラ全話を振り返ってみました。自分でも読み返してみると色々発見がありましたので本当に無限に発見のある漫画です。さて、全話を振り返ったのは「タイパラとは何なのか」ということを考える為でしたが、私には全然分かりません。全編通して漫画家漫画を装い、概念について語られていたように思えます。

 疲れたので今回はここまでで終わらせていただきます。まだ来週何かしらタイパラに頭が縛られてしまっていたらまた何か書きます。この記事が皆様のタイパラへの理解に役立てば嬉しいです。それでは。


⇒to be continued...
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*1:号数と話数が合わないのは合併号のため。

*2:この技術は普通に凄いと思うので次回作期待してます。頼むから普通の漫画を描いてくれ。

*3:例えば第8話の佐々木君の借金問題。

*4:しかしセンター試験とは違って設問はないため、まず読んだときに「なぜ?」という問いかけを自ら思いつき、それを解決するために読み込むという作業が必要です。

*5:佐々木金は4年間持ち込みをしていますが、この期間は夢を諦めるために妥当な期間として設定されたのでしょう。しかし、4年間持ち込んだ佐々木君のストーリーテラーとしての能力がこの程度であるという描写は佐々木君に過剰なヘイトを呼ぶ原因になってしまった。

*6:作中最も正しかった菊瀬編集はこの作中唯一と言っていい被害者です。可哀想。

*7:佐々木君はネームを描けない原作者が相方であっても作画担当としてやっていける実力を持っていることが示されています。しかし、あらゆる擁護も4年間という虚無の時間に呑まれて消えて行ってしまいました。

*8:本当にそう思うか?

*9:東京喰種で知った人も多いと思いますが、キャラを動かす動機や話を転がすための設定のことを指します。ルパン三世が狙う財宝とタイパラにおけるホワイトナイトは等価です。

*10:まあそれも最後の最後で捨てられてしまうのですが…。

*11:本当にこの頃の佐々木君のギャグテイストな顔がキツイ。1話の展開自体がかなり荒れていた上にこの表情であったことが更に油を注いだのではないかと思っています。手癖で白目ハワワを描くのをやめろ。

*12:未来のジャンプが送られてきてホワイトナイトを盗作してしまったについて、「でもきっとこれは義務だ」というのはちょっと勘違いが激しいのは同意しますが、そこから佐々木君がジャンプ連載作家の座にしがみついたとまでは言えません。せめて都合よくこの現状を解釈して罪悪感を軽減させようとしたくらいが限界です。佐々木君の好感度が著しく低いのでそう思ってしまうのも仕方ないかもしれませんが、そこはフラットになりましょう。。

*13:白目ハワワはマジでやめろ、手癖で描くな。

*14:きっと連載がもう少し長かった場合、赤石君あたりが藍野伊月のアシスタントとして働いていて、様子がおかしくなるところを見てアシスタントを追われたときに佐々木君へ話に行く話があったんじゃないかな。藍野伊月の結婚相手候補No.1は彼だと思っています。

*15:3話にて藍野伊月は佐々木君も同じ答えに至って非常に完成度の高い作品として昇華させたと思っています。この同類に出会えたという藍野伊月の思い込みは非常に重要であることが後に描かれますので、真実を明かす行為はせっかく出会えた同類がいないことを藍野伊月へ突きつけ、その気付きを否定するためにショックを受けるのは妥当ではあります。一方で当時の困惑度合も含めて佐々木君が藍野伊月のその辺りの心境までを気付けていたとは到底思えませんし、そこから筆を折ると思い込んだ理由も不明です。第一、藍野伊月は狂人なのでその程度で筆を折ることはないと後で読者は知ることになります。

*16:3話で託す発言されていますが、前注釈にある通りこれは藍野伊月にとってのイベントであり佐々木君イベントではありません。

*17:佐々木君の右手のテーピングは手首の動きを固定するためのものです。私も過去に腱鞘炎が酷かった時にこのようなテーピングをしていました。腱鞘炎のように関節を痛めると一生治らない(寛解はします)ので、みなさんは関節を大事にしてください。

*18:そういえば「佐々木先生は!!鳥です!!」の考察を見た記憶があまりないんですが、もしかしてここで出てきた「何物にも縛られず『自由』気ままに大空を舞う鳥なのです」の自由が√144に繋がるんでしょうか。間違った道を歩む藍野伊月から正解が与えられるとは何たる皮肉か。

*19:みんなを楽しませたい、という割には佐々木君自身は楽しくありません。1話の佐々木君の「みんなを楽しませたい」には菊瀬編集も含まれていませんでしたし、「みんな」って難しいですね。

*20:「代筆」という謎ワードが出てきた回で盗作でやんや言ってた人たちも、そうじゃない人たちも荒れた回でした。まだ話の方向性が全く見えていない状況でどっちのはしごも外してるんだからそうなる。

*21:五十嵐の状況は佐々木君と似ているという言説もよく見ます。おそらく「何が面白いか分からない」というスランプは「楽しんで描く」というテーマの裏返しなのでしょう。でも佐々木君は賞をとっても読切デビューすらしていない子な上に自分は面白いと思ったものを面白くないと一蹴されているので全く似てはいないですよね。

*22:少なくとも佐々木君にホワイトナイトを描かせた後、藍野伊月は新連載を描き上げて死の源流に捕まって死んだという最低1回の試行は行われているはずです。

*23:佐々木君がお金や連載作家というポジションを目当てにしてホワイトナイトを連載していないこと、また次週富くじが当選していたことからフューチャー君が真実を伝えていることの描写として考えるのが妥当です。そのため、どう借金をしたのかや借金の用途、現在の佐々木君の生活がどのように成り立っているのかを考えてはいけません。ちなみに最後まで読んでも佐々木君は借金を返済したのか、そもそも藍野伊月にホワイトナイトの収益を余さず渡せたのかは分かりません。

*24:8話にて急に佐々木君がホワイトナイトについて研究しだしてましたが、本来であればホワイトナイトをそのまま現代で描くのであれば佐々木君はホワイトナイトへの理解を深め、担当編集の疑問や指摘について躱していかなければなりませんでしたが、そんなことしていません。そうした描写があれば急な覚醒とならずに納得して読めていけそうでしたが、この辺りは8話の展開をしたかったからかもしれません。まあ、編集仕事してない問題についてはホワイトナイトは全人類が楽しめる超人気漫画なので、そのままネームを出しても指摘があること自体ありえないと考える方が良いでしょう。

*25:佐々木君か?と思いつつもそうするとフューチャー君を連載していたと思われる妖怪とのタイムパラドックスが生まれてしまう。一方で、この妖怪は作中で藍野伊月を「伊月ちゃん」と呼称した唯一のキャラであるため、時空へ干渉しているフューチャー君と何らかの関係があることは確実です。また「私も伊月ちゃんと同じように新しい道に歩むことにしました」という書き置きから、やはり佐々木君では…?と思ってしまう。ほんとなんなんだこいつ。そもそも創刊号から全部のジャンプ持っているってその頃から時空渡り歩いていたのか。フューチャー君と佐々木君に割れたの?はよ誰かこいつの正体について教えてくれ。

*26:ちなみにフューチャー君はこれを「君は真に受けなかったようだが」と言っているため、なぜ佐々木君を選んだのかを説明した世界線も経験済みであり、そちらもうまくいかなかったようですね。「君に伝えても余計な思いを与えるだけだからだ」というセリフはそういった経緯を踏まえてのセリフでしょう。分かりにくい。

*27:元から妖怪の描いた作品中のキャラクターですしね。「私に人の心はなく…」という割にそういった親心を見せたり、佐々木君に迷惑をかけた償いをしようとしたりしているところを見ると、これは彼自身が人ではなくなったことに対する自嘲なのかもしれない。佐々木君に歩ませた道程や行く末の選択肢の意味のなさを見るに、本当に人の心はなさそうですが…。

*28:無限の時間があったのに何で描き上げていないのか?それは話そのものが重要であり、絵はどうだっていいと解釈するしかありません。ホワイトナイトの連載でも佐々木君は絵に悩みますが、結局は絵の上手さなどではなくホワイトナイトを描く上で「みんなを楽しませたい」という思想を純化する方向に舵を切っています。

*29:ジャンプ妖怪おじさんの「楽しんで描いて下さいね」に帰結する恐怖。そして最近の編集インタビューがまさかタイパラ番外編であった恐怖。あらゆる意味で怖い。

*30:このまま彼らは話し続けるのでさっぱりわからない方もいらっしゃると思いますが、藍野伊月は「透明な傑作」を信じていた漫画家ですから彼女が本当に面白い漫画と思うのは「全人類が楽しめる漫画」であるはずです。しかし、佐々木君が描いたものは藍野伊月だけに向けた新編漫画です。つまり、そういう思想を持つ藍野伊月にだけ響く漫画を描いたので、佐々木君は「全人類が楽しめる漫画ではない」と言っているんですね。だからこそ、佐々木君はアイノイツキが描いたホワイトナイトではなく、新編の漫画を描かなければならなかったということでもあります。それにしても概念の話をスムーズに進めるんじゃない。

異修羅のすゝめ

 このラノ2021の投票も始まったので今イチオシの小説、異修羅を紹介します。

異修羅とは

 異修羅はカクヨム版で2017年7月から連載、そして2019年9月から電撃の新文芸から出版されているライトノベルである。そのキャッチコピーは『全員が最強。全員が無双。全員が英雄。全員がチート。一人だけが、勇者。』。このコピーに何ら嘘偽りがないことは読者全員が知るところである。
kakuyomu.jp
 異修羅は特定の主人公のいない群像劇として描かれており、作中で最強と謳われる修羅たちが戦う六合上覧(トーナメント戦)が行われている。カクヨム版では第二回戦の第九試合まで進んでおり、話の構成は【修羅紹介】⇒【第一回戦】⇒【第二回戦】という選手紹介と試合が進めていく中で幕間として試合の裏で起こっていたことや登場人物の過去回想などが展開されている。
 書籍版は3巻現在第一回戦の第二試合まで進んでいるが、なんとこれまで30万字近い加筆が行われており、【修羅紹介】のエピソードとともに知らない戦争や知らない自然現象、また知らない修羅の因縁が虚無から生えてきており、読者自称者(作中用語の魔王自称者から派生した異修羅読者の愛称)は本当に自称者になってしまった。ちなみに加筆エピソードはメインストーリーの改変もない上に作品の世界観を構築するうえで欠かせないものになっている。たぶん作者は化け物です。

異修羅I 新魔王戦争 (電撃の新文芸)

異修羅I 新魔王戦争 (電撃の新文芸)


 私が異修羅を勧める理由として、もちろん作中で隔絶した強さを有する修羅の強さとその戦いにあるのだけれど、この辺りは既に他の人たちによって紹介されている上、私自身は特に胡乱話を展開できる読者自称者とかではなく一般的な読者なので、ここではそこを割愛して異修羅世界の解説記事にでもしようかと思います。
 というのも、異修羅に出てくる修羅たちは彼ら一人登場させると物語が破綻するレベルの強さを持っており、しかもそれが16人も出てきてしまう。そんな彼らをまとめ上げて一つの物語へと落とし込む世界観こそが異修羅という物語のパワーであり、そこに惹かれる読者も多いのではないでしょうか。そういう訳で、なるべくネタバレせずに異修羅世界について解説していきます。

これで分かる異修羅

王国と魔王、そして勇者

 異修羅の舞台になるのは黄都と呼ばれる人族最大の王国である。かつて世界には三つの”正なる王”が治める王国が存在していたが、”本物の魔王”の出現によってうち二つの王国が滅び、残った一つの王国でも王族が死に絶え、今では最後の”正なる王”である亡国の王女と”本物の魔王”の脅威から都市を防衛した二十九人の武官・文官の黄都二十九官が治めている。
 作中で”本物の魔王”は既に何者かに倒されているが、黄都の成り立ちに由来する政治的な不安定さや戦乱による疲弊、更にその戦乱が生み出した単独で一国を凌駕する力を有する英雄や修羅の存在によって、黄都はその継続が危ぶまれている。黄都二十九官の第三卿は政治の求心力にすべく”本物の魔王”を倒した”本物の勇者”を見つけようとするが一向に見つからない。そんな中、彼は王女との会話で思いついてしまう。『黄都の掲げる勇者は”本物の勇者”である必要があるのか』、と。世界を恐怖と悪意で塗り替えた”本物の魔王”を倒した”本物の勇者”であれば、それは何者にも負けない実力を有しているはずだ。ならば、生まれ過ぎた英雄や修羅を集め戦わせ、その勝者を勇者とすればよい。そして、黄都に都合の良い英雄を担ぎ上げて勇者にできれば、政治的な安定を得られるとともに仮想外敵である英雄や修羅を処理できるのではないか。

 そう。六合上覧とは『”本物の魔王”を殺した”本物の勇者”をでっち上げるためのエンタメ試合』なのである。そして、それを関係者の誰も彼もが理解している。だからこそ、六合上覧に誰を勇者候補として参加させるか、どこで誰と戦わせるのか、試合の組み合わせをどうするのかといった陰謀や策略がある。そもそも自身は参戦すらせずに試合の裏側から支配を企む修羅もいる。ちなみに勇者そのものを理由に参戦している修羅はほぼいなく、誰も彼もが自身の目的を持って六合上覧へ臨んでいる。それは戦いであり、仇であり、誇りであり、欲であり、願いである。

魔王自称者と”本物の魔王”

 ”正なる王”以外に王を名乗る不遜な者たちに与えられる称号が魔王自称者である。他にも王国の基盤を揺るがす者たち、例えば気紛れで都市を一つ滅ぼす者や産業や農耕での革命を起こして王国の体制に危機を齎す者たちが魔王自称者とされる。つまり、正統なる王国にとって都合の悪い個人のことをそう呼称しているのだ。ただ魔王自称者という名称は元からそうだったのではない(基本的に好んで魔王を自称しない)。”本物の魔王”が現れる前までは彼らこそが魔王だった。
 ”本物の魔王”とは、かつて存在した全ての魔王を『自称者』に貶めた存在であり、それほどの影響力を持っていた。”本物の魔王”は恐怖により全ての生命を蹂躙する世界の敵であり、これまで数多の英雄や魔王自称者が戦いに挑んでは敗れ去った。もし”本物の勇者”が現れなければ黄都も崩壊し、全ての文明が消え失せていたかもしれない。

修羅

 修羅とは作中で登場する最強を冠する者たちのことである。異修羅には様々なクラス・種族の修羅が登場する。例えば、絶死の刃で死を齎す誰にも感知されない暗殺者の天使、生まれながら最強を名乗ることの許された凍術士の竜、長きの研鑽により全ての武術を収めた武術家の粘獣、全ての詞術を無に帰す解呪の力を持つ神官の大鬼、勝利することを約束された人工英雄である騎士の人間といった修羅が登場する。そして彼らは”本物の魔王”が倒れてなお、今も残り続けている脅威である。彼らが一度解き放たれれば都市は一瞬で崩壊し、残る景色は惨劇の痕だけ。彼らが生き残っていればいつか全てがそうなる。彼らは英雄であると同時に潜在的な魔王自称者である。
 一方で異修羅はそんな修羅の戦いを物語の主軸としているが、これは同時に力を持たない人々の物語でもある。彼らは時に修羅を殺す為に死地へと誘い、時に自らの欲のために修羅を利用し、時に”本物の魔王”の恐怖を修羅に見出す。

 ちなみに各修羅には紹介エピソードがついてきますが、彼らの強さは紹介時の想像を遥かに上回ってきます。修羅には『異修羅構文』と呼ばれる各々の能力とクラス、種族が紹介される文が各エピソードの最後についてきますが、本戦後に必ず読み返したくなります。私は読み返しました。

詞術

 異修羅世界では詞術と呼ばれる概念がある。広義的には意思伝達の方法であり、私たちは音そのものを言葉としているが、異修羅世界では音を媒介としてそこに込められた心(意図)を他の個体へ疎通するものである。それゆえ、異修羅では心持つ種族ならば誰しも詞術を介して意思疎通ができる。これによって作中では人族以外の鬼族、獣族や竜族といった様々な種族間の交流が齟齬なく行える。
 そして狭義的には、作中ではもっぱらこちらの意味で使われるが、詞術を利用して対象物に燃えたり動いたりするようお願いして現象を起こす力である。熱を生み出す熱術、物を動かす力術、物の形を変える工術、物の性質を変える生術の大きく四系統に人族は分類しているが、これらの真逆の概念の詞術や全く新しい第五の詞術が最近できたことからもまだ他系統の詞術も作られるかもしれない。
 詞術を使うには①詞術の詠唱を行うこと、②対象物に対してある程度の理解度が必要である、といった制限がある。特に②の理解度というのは簡単に言えばよく知らない・付き合いの浅い対象への詞術は不発となるという強い制限を有する。なので異修羅世界では良く慣れ親しんだ武器や物こそが詞術を介した戦闘において重要な生命線となる。

客人(まろうど)

 彼方と呼ばれる異世界(私たちの現実世界に近い世界)から流れ着く者たちを客人と呼ぶ。彼らは元々いた世界の法則では説明のできない逸脱した力や技能を持っており、それ故に世界から放逐されてしまった存在である。この逸脱は様々なものがあり、例えば弾丸軌道を回転により捻じ曲げて遮蔽物を無視した銃撃を行える銃手、対処不能の刹那の略奪を遂げる盗賊、鈍ら刀でも全ての物を斬り捨てる剣豪などがいる。客人は異修羅世界の生まれではないため詞術が使えないが、それでも彼らはこの世界で逸脱した強さを持っている。彼らの絶技は詞術でも再現できるが、その再現は①詠唱、②対象物への理解が必要である。一方で客人である彼らは詠唱も対象物への理解も必要なく、ノーコストで高度な詞術を発動できるに等しい。無理を通せば道理が引っ込むを地で行く彼らが強くない訳がない。
 一方で、客人にはたまたま定規を持っていたので単位統一を成し遂げた商人やどんな真実をも探し出すジャーナリスト、傭兵都市を築き上げた軍人など戦闘面以外での逸脱をした客人も多くいる。そういった点から客人が異修羅世界を生き抜くには自らの逸脱に対する理解を深める必要があり、誤った理解や過信をした者から退場してしまう。異修羅世界は基本的に誰に対しても辛くて厳しい。
 また客人のように流れ着くのは人間だけでなく、他の生命体や器物も含まれている。抜刀した瞬間に古びた刀身が光の刀身となり全てを切り裂く魔剣やこの世全ての蔵書を有する図書館などが流れ着いたりする。また竜はかつての爬虫類の逸脱種が流れ着き種と定着したものと言われていたり、客人は異修羅の世界とは切っても切り離せず、世界そのものへ多大なる影響を与えている。

二つ名

 異修羅ではどんな人物でも二つ名を持つ。自分の特技や功績、印象に残った思い出を付けることもあれば、他者から与えられることもある。例えば、ちょっと力術が得意で鏃を使った攻撃をする子は『遠い鉤爪』という二つ名を持つ。作中では二つ名の説明はほぼないが、目の見えない少女の二つ名が『晴天』であることに思いを馳せてみたり、根獣(マンドレイク)が『海たる』というギャップのある二つ名を名乗ることに疑問を覚えつつ読み進めて衝撃を覚えたり、登場人物に対する想像が膨らむ良いシステムである。

 ちなみに私は『冬』の二つ名が好きです。異修羅世界では季節は存在せず、冬は彼方から齎されたただの概念ですが、知ればこの二つ名こそがふさわしいと思うでしょう。

最後に

 異修羅世界に関する解説をしましたが、もちろんここだけでは語れないものも多く存在します。togetterには『異修羅一問一答』のまとめがあり、これは読者の質問に著者が答えるという趣旨のものですが、恐るべきことに読者からの質問にほぼノータイムで回答しています。それだけ著者の中には作中では語られていない世界観や設定が存在しているということです。ぜひ、気になったという方はまずはカクヨム版からでも良いので異修羅に触れていただき、そしてこのラノ2021に投票してまだ私たちも知らない異修羅の続きを一緒に読みましょう。

questant.jp
このラノ2021の投票は2020年9月23日17:59までです。忘れずに投票しましょう。

【積読9冊目】宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃

 今年の4月、「IUT理論」がアクセプトされたというニュースを見た。大学生の頃にこの理論の話を見て、なんだか難解な話だなと思っていたことを覚えている。「かけ算とたし算の概念を切り離す」といった理論であると漠然と聞いたことがある程度であったが、ニュースがあったこともあり一度ちゃんと調べてみようかと思った矢先、本書に出会った。

 本書はIUT理論提唱者である望月教授と私的にも交流のある加藤文元氏によって、「一般人向け」に書かれた本である。IUT理論はそれ自体が600ページに渡る論文であり、更にそれを理解するには望月教授がしてきた1000ページの研究論文を読む必要があると言われており、微分積分線形代数で数学を挫折した自分にはとてもではないが読み解くことはできない。そういった意味で本書はまさに蜘蛛の糸と言えるだろう。

 それにしてもIUT理論は発表当初、望月教授があまり論文発表に対して積極的ではないという話を聞いていた記憶がある。その辺りの経緯も本書ではまとめられているが、上述の通りに論文そのものが600ページ、それを理解するための論文が1000ページ。更に加えてIUT理論自体が既存の数学の概念を覆すようなものであるため、学会発表などでエッセンスのみを話すと数学の理論的な話ではなく、哲学的な概念の話しかできないため、この理論をみなに認めてもらうためには草の根的にやっていくしかなかった、というのも納得のいく話である。実際、「かけ算」と「たし算」の概念を切り離すというのが未だにどのようなものなのかよく分かっていない。

 ちなみにIUT理論は「宇宙際タイヒミュラーInter-university Teichmüller)理論」を略した言葉である。ここでいう「宇宙」とは数学体系のことを指しており、「際」というのはこれらの異なる数学体系に接したところ、タイヒミュラーは数学的な用語でイマイチ簡単な説明が思いつかないが、この異なる数学体系を繋げる理論のことを指しているとすればいいのでしょうか。間違ってたら申し訳ない。今まで私たちが親しんでいた数学というのは、「かけ算」と「たし算」はどちらも決して切り離せない硬い関係、正則構造を有しており、この正則構造を壊して云々というのがタイヒミュラー理論と関連しているが、やはりいまいちピンとは来ない。というのも、本書では「かけ算」と「たし算」を切り離すという言葉は出てきても、それぞれの数学体系に関する説明がないからだ。おそらく、この話をするには恐ろしい程専門的な知識が必要なのだろうとは思う。ただこの異なる世界を行き来できる抽象的な情報である「対称性」を駆使して、異なる数学体系で計算を行うことがIUT理論に肝らしい。素人が一回読んだだけで考えをまとめようとすると、全く伝わらない気しかしないが、本書はIUT理論の理論体系を学ぶというより、何をやりたいのかを学ぶというものであるので、この辺りで容赦願いたい。

 それにしても本書を読んでいて面白いなと思ったのは、IUT理論を理解するために他の数学の概念を説明しているところである。特に「群論」に関してはIUT理論にかなり関連があるおかげか、本当にわかりやすく書かれていていた。大学で数学を習うとき、これは線形代数であったが、「公理、定理さえ理解できれば計算はできる」という教員に習ったせいか、今でも苦手意識のある概念である。ちなみにこの授業を受けていたクラスでは、先生の授業を聞くよりも参考書を解いた方が分かりやすいと共通認識を持っていた。単位は無事取ったが、名前も顔も覚えていないあの教員についてはちょっとむかついている。他の授業で習って今でも覚えているキーワードは複素解析の留数定理だとか、電磁気学で出てきたダイバージェントとかなのだが、結局どういう理論であるのかといった詳細は全く覚えていない。一方で本書では具体例をまず示し、徐々に抽象化して数学の概念を示しており、大変わかりやすい構成となっていた。これは自分の中での発見ではあるが、理論や理屈を聞くよりも、なぜその数式が求められたのかというストーリーから入った方が理解度が深まると分かった。大学の教養講義で「科学史」なるものを4単位ほど取ったが、数学でも「数学史」のように古代ギリシャの頃からどのように数学が発展していったのかを学べば今のような強い苦手意識を持たずに済んだのかもしれない。そのようなセミナーがあればぜひ受けてみたいと思うが、実際のところは広く浅く知識が求められるようなものになるし、最前線の研究者にとっては魅力的なテーマでもないのだろうから、あまり期待はできないかもしれない。ここまで書いて、よく高校の文理選択で理系を取ったなと思う。実際、大学入試での数学は散々であったが、他の科目でカバーできていなので事故は起きていないし、専攻も化学なので問題はなかった。統計はちゃんと勉強しておくべきだったと今でも思っており、たまに教科書を眺めているが。

 久し振りのブログ更新ということで、長文の書き方を忘れてしまっていたり、ちょうど放送されていたゴジラを見ていたり、そもそもIUT理論が難しかったりとしたせいで散らかった文章になってしまったが、本書は「数学なにそれおいしいの?」という人でも分かりやすく解説されている良書であるので、ぼんやりどういう理論なのか知りたいという人はぜひ手に取ってみてほしい。

宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃

宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃

【積読8冊目】入門者のLinux

 最近は積読に手をつけながらも、途中で面白くなくなって手放してしまうことが多い。「これは読むべきだな」と思って買った本というのは中々読むのが難しい。これから生きていく上で知っておいた方がよいと思いながらも、興味がないために面白いとも思えない。やはり好きこそものの上手なれというのは至言だと思う日々だ。

 そんな中、プログラミングを仕事でしないといけなくなり、Linuxを使わないといけない状況になってしまった。この流れを作ってしまったのは自分でもあるのでしっかりしなければならない。かと言って、CUIなど高校の情報や大学での授業でちょっと触ったことがあるだけで基礎知識も特にないため、ひとまず基礎から勉強しようと思い買った一冊がこの本である。

 CUIがどういうものなのか、そういった概念的なことは知っていたが、具体的に何ができるかというのはよくわかっていなかった。本書はCUIについて全く知らない人を対象として、まさしくプログラミングの入り口までを丁寧に案内してくれる良書と言えるだろう。最後の応用では静止画ライブカメラの画像を自動で取得、その画像を動画化するといったちょっとした応用までできる。

 よくわからない人にCUIを説明するなら、家に帰ってエアコンやテレビをつけるとき、それぞれのリモコンで操作するだろう。このリモコンが所謂GUIと呼ばれているものだ。それぞれの機器を操作するのに最適化されたものである一方、テレビのリモコンではエアコンは操作できない。わかりやすいが、それ以外の操作ができないのがGUIと言えるだろう。対してCUIはそれ自体はわかりにくいが、使いこなせれば自分専用のリモコンを一つ作ることでテレビもエアコンも操作でき、なんなら何時にON/OFFにするとか、季節によって自動で設定温度を変えるとかまでできてしまう代物だ。別にリモコンのほうがわかりやすいよねって言う人もいれば、無駄に凝って自分専用のリモコンを使いたい人もいるだろう。そういった凝ったことがしたい人にとってはCUIは優れたものだし、LinuxというOS自体そういったことをしやすいOSである。実際、会社の知り合いには家のプロジェクターなどの家電をすべてプログラム制御している人もいるので、趣味とするにもちょうどいいものかもしれない。

 個人的にはそういったところまでする予定はないが、概念を知っていれば何か役に立つかもしれないし、何より今の仕事に直結しているのでひとまずはそちらを頑張ろうと思う。

「1%の努力」の追記

 昨日書いたエントリ、何気なく書いてたら著者本人から反応があったことにビビり、更にめちゃくちゃアクセスが伸びていることに驚いている。

qf4149.hatenablog.com

 本人から反応があったので、せっかくなので自分の考えもまとめてみようと思う。それにしても、まずは他の人の話を参考にしようと思ってこのツイートの返信部分を見てみたけど、これだけ色々リプライがあるのは大変そうだなって他人事ながら思ってしまった。


 話に入る前に、実はいうと前回のエントリの内容が言葉足らずであることに気付いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 また、最後にひろゆきは「弱者の味方」と宣言していることや、幼少期の暮らしやフランスのホームレスの話を読んでいると、「うしろめたさの人類学」を思い出した。結局、私たちは生活を豊かにしていくにつれ、生活の一部を少しずつ外注するようになり、結果として人間関係すらも外注してお金で解決してしまい、人との距離が離れるからこそその隙間に孤独に悩む人がいる。「うしろめたさの人類学」はエチオピアと日本を行き来した比文化人類学者が書いているが、人との距離が近ければうしろめたさを感じ、貧しい人や物乞いの子供にお金や物を恵むことが当然になるし、精神を病んだ人を排斥せずに地域のコミュニティに受け入れていくと書かれていた。現状、日本ではそういった社会にはならないだろうが、そういった社会を目指すためにどうするのか、そういった話をひろゆきから聞いてみたいと思った。

 太字で示した「そういった社会」が指す言葉は「物乞いにお金や物を恵むことが当然~」といった具体例ではなく、「貧しい人や精神を病んだ人のような特定の人を排斥しない、他人に対してうしろめたさを感じる社会」という抽象的なことを指していたのだが、改めて読み返してみるとどう考えてもそう読み取れない。別に物を書いて飯を食っている訳ではないので気にする必要はないのかもしれない。だが大学自体の恩師から「誰にとっても一義的に読めるような資料を作れ」と言われたことを今でも覚えている身として、いまだにできていないと反省するばかりだ。元々文章をうまく書けるようになりたいと思い始めたブログなので頑張っていきたい。


 さてそういった話ではあったのだが、頂いたコメントの話では「物乞いにお金を与えるのは効率が良すぎて、教育を与えて仕事でお金を稼ぐ選択が損する」というのは本当だろうかと色々反論を考えてみているが、これを間違いだとはほぼ言えないという結論になってしまった。例えば「物乞いで生きていくのは生活水準が低いため、より質の高い生活を送るには物乞いを脱するしかない」というのは正論ではあるが、それは真っ当に仕事をして稼いでいる人間の考えである。それで充分であると当人が思っている、もしくはそう思っても行動に移せるほどの意思が持てないということもありえる。それで生きていけるのだから、もうそれでよいと言われれば終わってしまう。更に極端な例なので適切であるかは少し微妙だと思うが「ナウル共和国」という国があることを思い出してしまい、更に否定できなくなってしまった。

 ただこういった話を考えるときにいつも気に留めておきたいのは、大体普通の人たちも含めて「誰も彼も頑張って生きていこうとまでは思っていない」ということである。この「生きていこう」は色々なものに置き換えていける。勉強、部活、仕事、趣味、恋愛等など。きっと、大体の人は特に考えずに「生きているから生きている」のだと思っている。そういった意味では、特に向上心などを持たなくても最低限の生活が送れるような社会システム(例えばベーシックインカムのようなセーフティネット)を構築するのは非常に重要ではないだろうか。そんなものを取り入れれば怠ける人(その極端な例が前述のナウル共和国)が出るという反対意見もあるだろうが、別にそれはそれでいいと思っている。それよりも重要なのは、現状に不満を感じる人たちに対してやりたいことをやれるようにする「機会の平等」を与えることである。生きていく上で、親や環境、遺伝子が絶対に関わってくるとは本書にもある(P.021-022)が、その環境を整えて機会の平等を与えるという意味でシステムを構築するのもまた間違いではないと思う。私個人としても、一応企業勤めでそれなりに稼いでいるとはいえ、業界が今後縮小することを思えば、いつ自分が無職になってしまうか心配なのでそういったシステムがあると非常にありがたいと思っている。
 この姿勢は「寄生している」ということになるのだろうか。これまでの人類史ですべての人が経済発展や社会貢献のために生きているのであれば、今頃もっと世界は良くなっていると思うので、大体の人は世の流れに身を任せて、長いものに巻かれて生きていたのだと思う。それは「寄生」なのだろか。例えば、このブログを書くために使っているPCに、私はまったく貢献していないと自信を持って言える。ただ稼いだお金で買っただけである。多くの革新的な業績を納めたごく少数の人たちのおかげで私たちは質の高い生活を送れている。間違っても、この生活を送れているのは自分のおかげではない。もうこの21世紀、完全に自らの能力や努力だけで生活できている人間などいやしない。

 と、なんだかまとまりがなくなってきてしまったのでひとまず終わってみる。無理やりまとめれば、私は条件付きではあるけれど、しっかりとした社会システムを築いてお金上げてもいいんじゃない?と考えているというお話でした。そういったシステム構築のためには、「他人に対してうしろめたさを感じる距離感」なり、「他人に対する想像力を持つ」なり、そういった社会規範が必要なのだろうと思う。
 あとこのエントリではひろゆきの引用RTについて肯定したり否定したりしているが、世の中完全に白黒つけられるものなんて存在しないと思っているので、そういったゆるふわ感を大事にして生きていきたい。

【積読7冊目】1%の努力

 以前本屋でぶらぶらしていたとき、ふとひろゆきの顔が目に入ってきた。今帯を見ると、相変わらず煽り力の高いひろゆきが目に入る。普段からビジネス書や自己啓発本はほぼ書いてあることは同じで更に読んでも何もしないのが分かり切っているので買わないのだが、「そういえばひろゆきのこと何も知らないな」と思い、手に取った一冊である。ひろゆきについて知っていることと言えば、2chの管理人であったことと「うそをうそとは~」とか「あなたの感想ですよね」とか言っているよく見る写真くらいのものだ。大体の人がそうだと思う。
 本書の内容と関係ないところでビックリしたのは、まずひろゆきが今フランスのパリに住んでいるということである。4chがあるからアメリカだと思っていたが意外だ。それと、本当どうでもいいことで言えばタバコを吸っていることである。勝手に嫌いだと思い込んでいた。

 さて、本書の内容はなぜ「1%の努力」なのかをひろゆきの生い立ちから語ることで読者と前提条件を合わせてから進んでいく。ビジネス書の内容に加えて、その考えに至るひろゆきの小噺も個人的に非常に面白かった。幼少期は団地暮らしでどうしようもない大人たちを見て、底辺同士地域で支えあいながら成長した話は、私自身親が転勤族で普通のマンションに住んでいたのでそういった価値観があることは知っていたが、やはり実感が湧きにくい一方、世界とはそういうものなのかもしれないとも思う。また、大学時代でのバイトでピザの配達を1時間で普通は3件回るのに対して、抜け道を利用して6件回れるようになった結果、2倍働くのではなくて空いた30分で友達の家でゲームをするなどといった話など、コンプライアンスが厳しくなった今では(程度問題ではあるが)炎上案件だろうと不謹慎ではあるが笑いがこぼれる。また途中で日本とアメリカの市場の違いを説明しているが、アメリカではコミュニティが細かく分断されており、およそ2億人全体にモノやシステムを一度に行き渡らせるのは難しいそうだ。一方で日本は比較的1億人に行き渡らせるのは楽らしく、それ故にモノやシステムの良し悪しよりもいかに流行らせるかがキーポイントらしい。この辺りをひろゆきは「島国」と「大陸」として説明していたが、個人的には「民族(もしくは文化、言語)」といった軸の方が説明しやすいだろうと思う。言いたいことは同じで言い換えているだけであるが。何はともあれ、そういった内容に興味を持っていただいた方にはぜひ本書を読んでほしいので詳細は割愛する。そういったなぜ「1%の努力」であるのか、それをひろゆきの人生観から書かれているのでエッセイとして読むのも面白いのではないだろうか。

 また、最後にひろゆきは「弱者の味方」と宣言していることや、幼少期の暮らしやフランスのホームレスの話を読んでいると、「うしろめたさの人類学」を思い出した。結局、私たちは生活を豊かにしていくにつれ、生活の一部を少しずつ外注するようになり、結果として人間関係すらも外注してお金で解決してしまい、人との距離が離れるからこそその隙間に孤独に悩む人がいる。「うしろめたさの人類学」はエチオピアと日本を行き来した比文化人類学者が書いているが、人との距離が近ければうしろめたさを感じ、貧しい人や物乞いの子供にお金や物を恵むことが当然になるし、精神を病んだ人を排斥せずに地域のコミュニティに受け入れていくと書かれていた。現状、日本ではそういった社会にはならないだろうが、そういった社会を目指すためにどうするのか、そういった話をひろゆきから聞いてみたいと思った。

1%の努力

1%の努力