考の証

要は健忘録

「1%の努力」の追記

 昨日書いたエントリ、何気なく書いてたら著者本人から反応があったことにビビり、更にめちゃくちゃアクセスが伸びていることに驚いている。

qf4149.hatenablog.com

 本人から反応があったので、せっかくなので自分の考えもまとめてみようと思う。それにしても、まずは他の人の話を参考にしようと思ってこのツイートの返信部分を見てみたけど、これだけ色々リプライがあるのは大変そうだなって他人事ながら思ってしまった。


 話に入る前に、実はいうと前回のエントリの内容が言葉足らずであることに気付いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 また、最後にひろゆきは「弱者の味方」と宣言していることや、幼少期の暮らしやフランスのホームレスの話を読んでいると、「うしろめたさの人類学」を思い出した。結局、私たちは生活を豊かにしていくにつれ、生活の一部を少しずつ外注するようになり、結果として人間関係すらも外注してお金で解決してしまい、人との距離が離れるからこそその隙間に孤独に悩む人がいる。「うしろめたさの人類学」はエチオピアと日本を行き来した比文化人類学者が書いているが、人との距離が近ければうしろめたさを感じ、貧しい人や物乞いの子供にお金や物を恵むことが当然になるし、精神を病んだ人を排斥せずに地域のコミュニティに受け入れていくと書かれていた。現状、日本ではそういった社会にはならないだろうが、そういった社会を目指すためにどうするのか、そういった話をひろゆきから聞いてみたいと思った。

 太字で示した「そういった社会」が指す言葉は「物乞いにお金や物を恵むことが当然~」といった具体例ではなく、「貧しい人や精神を病んだ人のような特定の人を排斥しない、他人に対してうしろめたさを感じる社会」という抽象的なことを指していたのだが、改めて読み返してみるとどう考えてもそう読み取れない。別に物を書いて飯を食っている訳ではないので気にする必要はないのかもしれない。だが大学自体の恩師から「誰にとっても一義的に読めるような資料を作れ」と言われたことを今でも覚えている身として、いまだにできていないと反省するばかりだ。元々文章をうまく書けるようになりたいと思い始めたブログなので頑張っていきたい。


 さてそういった話ではあったのだが、頂いたコメントの話では「物乞いにお金を与えるのは効率が良すぎて、教育を与えて仕事でお金を稼ぐ選択が損する」というのは本当だろうかと色々反論を考えてみているが、これを間違いだとはほぼ言えないという結論になってしまった。例えば「物乞いで生きていくのは生活水準が低いため、より質の高い生活を送るには物乞いを脱するしかない」というのは正論ではあるが、それは真っ当に仕事をして稼いでいる人間の考えである。それで充分であると当人が思っている、もしくはそう思っても行動に移せるほどの意思が持てないということもありえる。それで生きていけるのだから、もうそれでよいと言われれば終わってしまう。更に極端な例なので適切であるかは少し微妙だと思うが「ナウル共和国」という国があることを思い出してしまい、更に否定できなくなってしまった。

 ただこういった話を考えるときにいつも気に留めておきたいのは、大体普通の人たちも含めて「誰も彼も頑張って生きていこうとまでは思っていない」ということである。この「生きていこう」は色々なものに置き換えていける。勉強、部活、仕事、趣味、恋愛等など。きっと、大体の人は特に考えずに「生きているから生きている」のだと思っている。そういった意味では、特に向上心などを持たなくても最低限の生活が送れるような社会システム(例えばベーシックインカムのようなセーフティネット)を構築するのは非常に重要ではないだろうか。そんなものを取り入れれば怠ける人(その極端な例が前述のナウル共和国)が出るという反対意見もあるだろうが、別にそれはそれでいいと思っている。それよりも重要なのは、現状に不満を感じる人たちに対してやりたいことをやれるようにする「機会の平等」を与えることである。生きていく上で、親や環境、遺伝子が絶対に関わってくるとは本書にもある(P.021-022)が、その環境を整えて機会の平等を与えるという意味でシステムを構築するのもまた間違いではないと思う。私個人としても、一応企業勤めでそれなりに稼いでいるとはいえ、業界が今後縮小することを思えば、いつ自分が無職になってしまうか心配なのでそういったシステムがあると非常にありがたいと思っている。
 この姿勢は「寄生している」ということになるのだろうか。これまでの人類史ですべての人が経済発展や社会貢献のために生きているのであれば、今頃もっと世界は良くなっていると思うので、大体の人は世の流れに身を任せて、長いものに巻かれて生きていたのだと思う。それは「寄生」なのだろか。例えば、このブログを書くために使っているPCに、私はまったく貢献していないと自信を持って言える。ただ稼いだお金で買っただけである。多くの革新的な業績を納めたごく少数の人たちのおかげで私たちは質の高い生活を送れている。間違っても、この生活を送れているのは自分のおかげではない。もうこの21世紀、完全に自らの能力や努力だけで生活できている人間などいやしない。

 と、なんだかまとまりがなくなってきてしまったのでひとまず終わってみる。無理やりまとめれば、私は条件付きではあるけれど、しっかりとした社会システムを築いてお金上げてもいいんじゃない?と考えているというお話でした。そういったシステム構築のためには、「他人に対してうしろめたさを感じる距離感」なり、「他人に対する想像力を持つ」なり、そういった社会規範が必要なのだろうと思う。
 あとこのエントリではひろゆきの引用RTについて肯定したり否定したりしているが、世の中完全に白黒つけられるものなんて存在しないと思っているので、そういったゆるふわ感を大事にして生きていきたい。

【積読7冊目】1%の努力

 以前本屋でぶらぶらしていたとき、ふとひろゆきの顔が目に入ってきた。今帯を見ると、相変わらず煽り力の高いひろゆきが目に入る。普段からビジネス書や自己啓発本はほぼ書いてあることは同じで更に読んでも何もしないのが分かり切っているので買わないのだが、「そういえばひろゆきのこと何も知らないな」と思い、手に取った一冊である。ひろゆきについて知っていることと言えば、2chの管理人であったことと「うそをうそとは~」とか「あなたの感想ですよね」とか言っているよく見る写真くらいのものだ。大体の人がそうだと思う。
 本書の内容と関係ないところでビックリしたのは、まずひろゆきが今フランスのパリに住んでいるということである。4chがあるからアメリカだと思っていたが意外だ。それと、本当どうでもいいことで言えばタバコを吸っていることである。勝手に嫌いだと思い込んでいた。

 さて、本書の内容はなぜ「1%の努力」なのかをひろゆきの生い立ちから語ることで読者と前提条件を合わせてから進んでいく。ビジネス書の内容に加えて、その考えに至るひろゆきの小噺も個人的に非常に面白かった。幼少期は団地暮らしでどうしようもない大人たちを見て、底辺同士地域で支えあいながら成長した話は、私自身親が転勤族で普通のマンションに住んでいたのでそういった価値観があることは知っていたが、やはり実感が湧きにくい一方、世界とはそういうものなのかもしれないとも思う。また、大学時代でのバイトでピザの配達を1時間で普通は3件回るのに対して、抜け道を利用して6件回れるようになった結果、2倍働くのではなくて空いた30分で友達の家でゲームをするなどといった話など、コンプライアンスが厳しくなった今では(程度問題ではあるが)炎上案件だろうと不謹慎ではあるが笑いがこぼれる。また途中で日本とアメリカの市場の違いを説明しているが、アメリカではコミュニティが細かく分断されており、およそ2億人全体にモノやシステムを一度に行き渡らせるのは難しいそうだ。一方で日本は比較的1億人に行き渡らせるのは楽らしく、それ故にモノやシステムの良し悪しよりもいかに流行らせるかがキーポイントらしい。この辺りをひろゆきは「島国」と「大陸」として説明していたが、個人的には「民族(もしくは文化、言語)」といった軸の方が説明しやすいだろうと思う。言いたいことは同じで言い換えているだけであるが。何はともあれ、そういった内容に興味を持っていただいた方にはぜひ本書を読んでほしいので詳細は割愛する。そういったなぜ「1%の努力」であるのか、それをひろゆきの人生観から書かれているのでエッセイとして読むのも面白いのではないだろうか。

 また、最後にひろゆきは「弱者の味方」と宣言していることや、幼少期の暮らしやフランスのホームレスの話を読んでいると、「うしろめたさの人類学」を思い出した。結局、私たちは生活を豊かにしていくにつれ、生活の一部を少しずつ外注するようになり、結果として人間関係すらも外注してお金で解決してしまい、人との距離が離れるからこそその隙間に孤独に悩む人がいる。「うしろめたさの人類学」はエチオピアと日本を行き来した比文化人類学者が書いているが、人との距離が近ければうしろめたさを感じ、貧しい人や物乞いの子供にお金や物を恵むことが当然になるし、精神を病んだ人を排斥せずに地域のコミュニティに受け入れていくと書かれていた。現状、日本ではそういった社会にはならないだろうが、そういった社会を目指すためにどうするのか、そういった話をひろゆきから聞いてみたいと思った。

1%の努力

1%の努力

【積読6冊目】絶滅生物図誌、それとマギレコのお話し

 在宅勤務、通勤がないから非常に楽でいいと思っていたら今週はそうでもなかった。直接を顔を合わせばすぐに済むような話でもメールで連絡を取ろうとすると、コミュニケーションがうまくいかずにイラつきが溜まるということが分かった。これは多分、自分の言いたいことを言うだけの人と一緒に仕事していると顕著に表れるんだろうと思う。ニュース等ではテレワークが進んだことで社内(?)での口論(?)が増えたということだが、確かにこれを続けていたらそうなるだろう。いつもなら職場の人と雑談してストレスを発散する場もないので、これは続いていくと大変だろうなとちょっと気が重くなる。

 そんなこんなで夜は21時くらいには眠くなり、不貞寝するような睡眠になってしまったので今週はあまり本を読めなかった。そういう訳で、今週は本というより図鑑を読んだ。

絶滅生物図誌

絶滅生物図誌

  • 作者:チョーヒカル
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


 子供の頃は恐竜や昆虫、植物といった図鑑をよく読んでいたなと思い出して買った本だ。この本にはカンブリア紀から現代にいたるまで、絶滅した生物のイラストと簡単な説明が書かれている。詳しい説明はないので、もっと知りたくなったらwikipediaを頼るしかないのだが、入り口としてはいい本なのかもしれない。また、昔の生物は淘汰されたために絶滅しているが、ヒトが生まれた以降ではヒトがその生物の絶滅に大きく関わっている(これも進化の淘汰と言えるが)ものも多く、ちょっと暗い気持ちにもなるが、書かれているイラストも綺麗でその生物が生きていた頃を想像できるので暇つぶしに持ってこいである。


 さて、そんな今週ではあったが、つい最近「ホーリーマミさん」なるものをネットで見かけ、マギア・レコードを視聴してみることにした。ゲームの方はⅠ部の方だけしていたので、絶交階段のウワサや口寄せ神社のウワサのことを知っている程度の予備知識で見始めた。
 このアニメ、まとめて見たからまだよかったが、13話中10話まで見ないと話が進まない上に、「調整屋」って何?とか、「ウワサ」って何?とか、ソウルジェムが濁ったときに出てきたやつは何?とか、話がとてもふわふわしていてよく分からない。更に話の本筋である「記憶から消えた妹を探す」という縦軸もあまり有効に活用されていない。10話まではソシャゲで出てくるキャラの仲間集めであるし、キャラ数も多いのでそこまで深堀できていない。というか、モモコとレナとかえでの3人は一気に話からフェードアウトしてびっくりした。君らもっと関わってくれるわけじゃないんだ。それに最後まで見ても結局調整屋が何をするところかよく分からないし、そもそも「ドッペル」という名称が出てきたのも最終話だし、ソシャゲの方やってないと話に全くついていけない。これ、リアルタイムで見ていてみんなよくついて行けたなって。良かった点は毎話服装が違って出てくるやちよさんがいたところ。モデル設定がちゃんと活きていたので関心していた。そういえば、みふゆって出てきていたっけ?全然覚えていない。

 そして問題のマミさん。アニメだけだとドッペルを使っているのはわかるけど、ウワサとも融合しているのってわからない。神浜聖女のウワサって作中に出てきたっけ?マミさん変身前に一回文字で出てきただけだと思うんだけど。というか、脚本上仕方ないとは思うんだけど、マミさんは精神弱すぎるのに、その精神が弱った時でも戦闘センスがピカイチなの怖すぎる。まどマギでも魔法少女の真実を知った時に、近接系の杏子を仕留めた後に時間停止能力を持つほむらをリボンで拘束して次の攻撃に移るとか、動揺している癖にやっていることがえげつなさ過ぎて怖いんだよな。きっと動揺している自分と周りを俯瞰してどう行動するのが最適解か考えている自分の二人が常にいるに違いない。叛逆での精神万全状態のマミさんも強過ぎるんだよな。そもそも、マミさんの能力ってリボンなのに何をどうしたらリボンからマスケット銃が作れるんだ。どう考えても後方支援系の魔法少女なのにおかし過ぎる。今回のマギレコだちドッペルとウワサの相乗で火力お化けになっていて戦い方に洗練されていたところはなかったたけど、確かに永遠とマスケット銃を作って打ち続けるのが最適解だからな。しかも予備動作なしにティロフィナーレも打てるし、強過ぎる。何だこの魔法少女。にしても「私たち騙されてたの」って何に騙されていたんだろう。今のところ、灯火のドッペル化による魔法少女の救済に穴はなさそうだけど、その辺りも2期で明かされるのかな?あと杏子とさやか。ほんと友情出演みたいな感じで笑ってしまった。まあ杏子の戦闘シーンも見れたし、さやかの珍しい真っ当な戦闘シーンも見れたし、満足っちゃ満足かな。あ~、叛逆見たくなってきた。
 それにしても、やはりアニメ化するにあたってキャラ数絞ってもっとそれぞれのキャラを深堀してほしかったな。最初のレナとかえではよく掘り下げられていたけど、モモコとやちよはほとんど掘れていなかったし。やちよ、もうちょっと前からデレてたと思うんだけど。

 結局、なんだか不完全燃焼に終わってしまった。やはりソシャゲをそのままアニメに持ってくるのは難しいんだなと思った。叛逆見よ。

春も消毒も終わらせたいから

 新型コロナが流行りだして早3ヶ月。街行く人々は大分減ったように思えるが、暖簾をくぐれば沢山の人がいる。これまで街行く人たちはどこに行っていたのだろうか。結構な不思議だと思っている。
 世界の国々ではパンデミックによる都市封鎖が行われ、徐々に入国禁止令が出始めて人々の流れが断ち切られている。今回のCOVID-19は毒性の低いタイプと高いタイプが混在していることがこれほどの騒ぎを起こしている原因と聞いているが、私はこの十数年でこれほどまでに人の流れというものが多くなっていたのかと改めて気付かされた。これからの世界はどうなっていくのだろうか。元々、自国第一主義が台頭し始めていた中での新型コロナによる強制的な鎖国がなされている。新型コロナが治まった頃、世界は元に戻ることができるのだろうか。


 春になったかと思えばすぐに寒くなったりしている。先週末は前日比で15℃もの気温差があり、若干雪のようなものが降ったりもしていた。普通に体調を崩すような気温差は季節の変わり目だからだろう。去年もだったが、桜が満開になってからの雪というのはこれからの風物詩になるのだろうか。このような気温差が出るのであれば、いっそのこと春も終わってほしいものである。

 久しぶりの今期は虚構推理と防振りの2本のアニメをなんとか1クール見ることができた。
 虚構推理は推理部分が若干アニメとの相性が悪かったのかもしれないが、作画のレベルも高く、面白く見ることができた。特に最終話の九郎の真顔で言う甘いセリフと、それを聞いた岩永の反応が見れたのが非常に良かった。ストーリーの長さも1クールがちょうどよかったため、冗長にならず良かったのではないかと思う。2期をやるのであれば、ぜひうなぎ屋の話と(最新ではあるが)スリーピング・マーダーをアニメ化してほしいと思う。うなぎ屋の話は見たいという話をよく見るが、自分含めなんでそんな好きな人が多いんだろうか。ちょっと気になる。
 防振りは漫画の1話だけを読んだことがあったので視聴してみた。典型的ななろう系であったがゲーム中の話であることと主人公が倫理崩壊系キャラではなかったのでギャグアニメだったのが耐えられた原因だろう。加えて1層のときのサリーの水中ボス戦と1層ボス戦は作画クオリティが謎に高かったのに驚いてその後も作画に期待したのもあるだろう。実際、魔王系主人公のギャグアニメとして(主に主人公の敵目線として)楽しむことができたが、やはりなろう系あるあるの「あれ?おれまたなにかやっちゃいました?」があるのが辛かった。普通の人間であればそこまで来たらおかしいことは気付いてくれるだろうに。そしてそれに周りが一斉に突っ込むのも、伝説の「くぅ~疲れましたw」を思い出させて辛い。そういう定型文のないお話しが見たい。
 一方でつい先日に超異世界転生エグゾドライブのコミカライズが始まってテンションが上がっている。原作以上に原作通りで絵もキャラデザもコマ割りもハチャメチャに上手くて更に読みやすく面白いという凄まじい漫画がこの世に生まれてしまった。ストーリーも短めで気持ちよく終われるので、これは映像化間違いないです。ほんとに。


 最近、「なんで自分はそう思うのか」というのをよく考えている。よくある「ああしたい」「こうしてほしい」「そうだったらいいな」という思いについて、先ほどの疑問をぶつけると、その理由・原因というものをあまり自覚していないことに気付いた。この書き方は正しくなく、本当は自覚してはいるが言語化できるほどはっきりしていないのだろう。これからのブログでこんな日常の更新をしていくときは、そういう「なんで」について深堀していきたいと思う。

 この半年が自分の人生を決めるのに大切だと思っている。無為に過ごすかもしれないが、できるだけ有意義な日々を送っていきたい。

【積読5冊目】時間は存在しない

 積読と言いつつ最近買った本しか読んでない。仕方ないよね、最近の方がまだ興味薄れてないから。次は1年以上買って放置している本でも読もうかしら。

 5冊目は「時間は存在しない」。大きなジュンク堂の近くまで行ったときに平積みされていて表紙買いした本の1冊である。

時間は存在しない

時間は存在しない

 本書は現役の物理学者が一般向けに今まで時間についてわかっていること、わからないこと、著者の仮説などをまとめて一冊であり、小難しい数式は1つ、それもクラウジスの不等式と呼ばれる熱力学第二法則を表す、物理化学を勉強し始めてすぐ出てくる式しか出てこない。それが逆に直感的な理解を妨げている気がするが、微分方程式が出てきても正直分からないと思うので、これでよかったのかもしれない。
 構成としては、まず私たちが思う「時間」とはこの宇宙において普遍的なものではないことを示される。その後、なぜ「時間」が普遍的ではないのかを著者の「ループ量子重力理論」から説明され、「時間」というものは物理の基本法則にはないことが示される。そして最後の章では「そんなこと言っても時間はあるよね?」という読者のために、なぜ私たちが「時間」を感じるのか。過去の哲学者たちの言葉を引用しながら著者は私たちが感じる「時間」に関して考察をして本書は〆られる。

 読んで自分なりに理解したのは、私たちの感じる「時間」は普遍的な概念ではなく、かなり特殊な概念であり、なぜそうであるかといえば私たちが存在する(感じる)宇宙が「特殊」であるからといったところだろうか。
 普遍的な「時間」がない、というのはアインシュタイン相対性理論でも示されている。同じ地球上でも海底と上空では地球の重心からの距離の差によって海底の方が時間の進みが遅い。これは時間が重力場によって生み出されているからに他ならない。また、時間は速度にも依存する。これは恒星間旅行を行うようなSF(インターステラーはよくできた映画だと思う)ではよくある描写である。そういった事実より、地球上を生きる私たちでさえ同じ「時間」を共有していない。ただそれを感じられないのは、私たちの持つ質量があまりに小さく、動ける速度もあまりに遅いからである。もしそうでないとすれば、きっと体を大きくして新幹線に乗ることが流行っていることだろう。より大きな視点に立てば、地球と夜空に見える星々が同じ「現在」を刻んでいるかなどというのは議論できない。先ほど書いたように星の質量も違えば公転速度も違うために時間の流れも違うだろう。そもそも光ですら何万年とかかるほど遠くにある星の「現在」を観測することなどできやしないのだ。そういう意味で、私たちの「時間」という概念がこの宇宙で普遍であるということは言えないだろう。
 では「時間」とは何なのか。それは著者によれば私たちの視点がマクロなものであるが故の「ぼやけ」であり、視点を量子単位にまで落とし込めば素粒子の位置と速度の「非可換性」こそがその正体であるそうだ。量子力学などは大学で習って大半の人が理解できずに脱落していく学問なので言及を避けたいところである。本書によれば、ニュートン力学では状態を表すための変数として必ず「時間」が入り込むが、この素粒子のレベルまで落とし込むと状態を表す変数に「時間」は存在しない。

存在するのは、出来事と関係だけ。これが、基本的な物理学における時間のない世界なのである。(P.147)

 ではこういった「出来事」と「関係」だけが物理学の基本法則であるのに、なぜ私たちは時間を感じるのか。物理学の法則の中で、時間の方向性を唯一示すものは熱力学第二法則だけだそうだ。これはエントロピーは必ず増大する方向に向かうという法則だが、つまるところ、綺麗に配列した状態から変化するときは同じ配列もしくはそれよりも煩雑になった状態にしかならないことを示している。本書ではトランプのシャッフルで説明される。例えば、12枚のトランプで上に赤6枚、下に黒6枚の状態のものをシャッフルすれば、必ずトランプは赤と黒が入り混じった状態になるが、これがエントロピーの増大を示している。宇宙は過去から現在に至るまでエントロピーが増大する方向に動いているそうだが、これが普遍的な時間を信じさせている。が、本書で上手いと思うのは発想の転換の仕方だ。先ほどの例で言えば、12枚ランダムに並べたトランプをシャッフルした後、トランプの配列はランダムのままなのでエントロピーは増大していないように思える。だが、初めの配列から確実に変化しており、私たちがエントロピーが増大していないように見えるのは「私たちがその配列の意味を知りえないから」ということ。逆に言えば、最初の例を挙げれば「赤と黒に意味を見出している」のは私たちに他ならない。もしかしたら、私たちに見えていない配列を含めれば、エントロピーは増大していないかもしれない。そういった意味で、物理学の基本法則にはない「時間」という概念を私たちは特殊な立場に立っているからこそ感じているのだ。


 なんて内容でした。いや、正確に理解できているかはわからない。読んでから感想を書こうと思っていたら麒麟がくるが始まってしまい、義輝様が格好良すぎてブログに書く内容が飛んでしまったからだ。罪な男だ。
 そんな話はさておき、本書では上記に述べたような発想の転換が非常に上手いと感じた。初めの部では以下のように物体の落下を説明している。

物体が下に落ちるのは、下の方が地球による時間の減速の度合が大きいからなのだ。(P.18)

普通、物体が落下するのは重力に引っ張られるからだという説明になる。だが、この重力は「時間」という言葉で言い換えても問題ない。なぜなら、重力場で発生するのは「時間」と「空間」の歪みであるからだ。本書ではこういったこれまで常識であると考えていたことを違った視点で見ると新しい発見があることを沢山教えてくれる。

 他に印象に残っていたのは、ニュートンの話である。ニュートン万有引力の法則で有名だが、彼は「絶対的な時間」や「絶対的な空間」なるものを信じていたようだ。この話を読んで、私は大学で受けた科学史の授業を思い出し、ニュートンらしいと思った。
 万有引力の逸話でよく知られているのは「ニュートンは木からリンゴが落ちるところを見て万有引力の法則をひらめいた」というものである。実際はそうではない。当時の人でもリンゴが地球に引っ張られて落ちていくことは知っていた。重要なのは「地球上の物体だけでなく、リンゴと同じように月すらも地球に落ちている」ということである。ニュートンは当時地球と神が住むと考えられていた空では違った法則が流れていると信じられていた中、地球だけでなく空の領域でも同じ法則が流れていることを発見したのだ。だからこそ「万有引力」なのだ。そんな発見をしたニュートンだが、この法則から彼は神の存在証明をしようとしていたと授業で習ったのを覚えている。彼は神学者でもあり、この世の全てのものに働く美しい法則を作れるのは神だけだと信じていた。そういったエピソードを知っていると、おそらくその「絶対的な」時空間も神がこの世を設計したら全てを美しく設計していると考えてもおかしくないだろう。そういった意味でニュートンらしいと思った。

 また関係ない話をすれば、どうしてヨーロッパの人々は物事を説明するためにわざわざ哲学者の言葉やシェイクスピアを引用するのだろうか。単なる比喩なのだろうが、むしろ説明が冗長となってしまい言いたいことがぼやけているように思える。これは私がそういった知識に疎いせいなのかもしれないが、明らかに翻訳者あとがきの方が本書を理解するうえで役に立つはずだ。

 と、テレビを見ながら感想を書いているとどうしても書く内容に筋を通すのが難しい。初見のテレビを見ながら原稿を書く小説家もいるらしいが、どういう頭をしているんだろうか。気になって仕方がない。

【積読4冊目】バッタを倒しにアフリカへ

 休日、今日は外に車で買い物に行ったのに本を2冊読めた。普段自分がどれだけ無駄な(?)時間を過ごしているかが分かる。子供の頃は本を読むのに時間がかかっていたが、今では普通の小説であれば3時間程度で読めるようになったのはやはり経験値がモノをいうのだろうか。自分の専門分野ではない本を読むときは三行読んで五行戻ることもあるので、そう思うと流し読みしているだけな気もする。

 本日2冊目の本は前野ウルド浩太郎氏の「バッタを倒しにアフリカへ」である。確かこの本を知ったのはTwitterだった気がする。なんでも、バッタが好きで触れ合いすぎたらバッタアレルギーになったバッタ研究者がいるらしく、そんな人が書いた本があると。実際、読んでみるとマイナー分野でPh.Dを取った人がその分野で飯を食っていくために定職を得るまでの話であった。地味に笑ったのは、てっきりアフリカでサバクトビバッタの研究をしてからアレルギーになったかと思っていたら日本の大学院時代には既にバッタアレルギー持ちになっていたところである。端折られているだけで、この人日本にいるころから相当バッタと触れ合っていたのだろうか。そもそも虫アレルギーってなんなんだ・・・?そんな疑問もつい出てきてしまう。

 本書の内容は上記にある通りだが、バッタ研究のフィールドワークという誰もやっていないような分野を、しかも日本から遠く離れたモーリタニアというアフリカの国に一人単身で渡り、ポスドクの任期も終わり無収入のまま、時には干ばつに見舞われてバッタがいないといった事態に巻き込まれながらも、その日々を著者の底抜けポジティブな語り口で書かれた本である。意外に思ったのはサバクトビバッタの研究は、今年ニュースに大きく取り上げられていたが、フィールドワークでの研究が行われておらず、蝗害対策も殺虫剤による対症療法的なものであったことだ。確かに、映像で見ると一面バッタだらけで空も埋め尽くす群れを見ると結局のところ殺虫剤で対処するのが一番コストパフォーマンスが良いのだろう。本にある通り、これは数年に一度程度起きるもので毎年起きるものではないこともそういった現状維持をしている原因であるのかもしれない。
 そんな真面目な感想もあるが、本書の面白いところはバッタの研究以外にも普段のモーリタニアの生活などの失敗談等も混みに赤裸々に語っているところだろう。きっと、この本には面白おかしく書かれているが、その当時は本当に大変であっただろうし、たくさん悩んでいたと思う。実際、ポスドクの任期が切れて無職のままやりたい研究を続けるか、日本に戻ってバッタ以外の研究を行うかを悩んでいるところは非常に辛かったんだろうと思う。このときに著者が世話になっていた研究所のババ所長の「つらいときは自分よりも恵まれたものたちを見るな。みじめな思いをするだけだ。(中略)嫉妬は人を狂わす。(P.264)」というのは真理だと思う。このババ所長は子供の頃に死にかけた経験をした後に、これから先の人生はないものだと思い人のために働きたいと親の反対を押し切って勉学に励み、サバクトビバッタの研究所に入って蝗害と戦う人なのだが、めちゃくちゃに人が好さそうなのが伝わってくる。やはり現場で働く人には頭が上がらない。
 個人的に好きなエピソードはモーリタニアへ行った年に干ばつによってサバクトビバッタが現れなかったときにゴミムシダマシの話である(バッタの本なのに)。おびき寄せるスパゲティを腹いっぱい食べて動けなくなるところも良いが、食べ過ぎて体が膨らんで首-胴体の節が伸びる話やその状態で首を押し込むことで腹の先から生殖器が飛び出して雌雄判別ができる話など、本当の話かと思うくらい面白い。しかもその後ゴミムシダマシで実験をしているとハリネズミに食われてしまい、そのハリネズミを捕まえて監禁という名目で飼ったり、すっかり忘れた頃に再登場するところも良かった。
 そういった研究の他、サバクトビバッタの研究で食べていくために日本での啓蒙活動(?)をしていく中で多くの人と繋がったり、職を得るための面接の話などもあた。特に前者ではやはり一つの夢や目標に向かって全力を尽くしている人には同じように志の高い人たちが集まるのだなと思った。全力で人生を生きている人たちを見ると羨ましく、そういった目標を人生で持ちたいなと思う。またそういった人たちとの話や後者での面接の話の中で思うが、やはり「見ている人は見ている」のだ。だからいくら周りが馬鹿にしていても、誰からも見られていないと思っていても、しっかり仕事を出していればいつか、誰かがそれを必ず見つけてくれて、そして認めてくれるのだなって思う。

 本書では研究そのもの話というよりは、エッセイに近いものかもしれない。バッタや研究のことが分からなくても楽しく読める本で誰にでも勧められると思う。これから日本でもサバクトビバッタの研究が盛んになるといいなぁと思わせる本でした。

【積読3冊目】ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在

 久しぶりの更新。休日も少し忙しかったりして落ち着いて過ごす日がなかったが、これからは休日は、というより平日も大分時間を取れるそうだ。それがわかっていたため、積読は減るどころか増える一方で気付けば30冊は余裕で越えていそうだ。だいたい一冊3日かけるとしても90日で読み切れると思えば、そんな積んでいないかもしれない。そもそも積んでいる中には普通の小説もあるため、毎日読書すればもっと早い段階でなくなるかもしれない。

 そんなこんなで、久々の積読消化は「ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在」である。この本は以前本屋に行ってぶらぶら時間をつぶしていた時に目に入って買った本だ。最近は新型コロナウイルスの話題が尽きないが、そういった時事的な要素もあり平積みされていたのかもしれない。

 内容は「ウイルスとは何か」といった話から始まり、ウイルスをどう人類が発見したのかといった始まりから現代までのウイルス学に関して各章ごとに書かれている。こういった本は難解であると思っていたが、読んでみると大学一年生の教科書のようにわかりやすく、ウイルスとは何かを勉強するにはうってつけの本であると思う。というのも、本書はウイルスの発見から現代までの歴史(科学史にならってウイルス学史というのだろうか)を小難しい用語を使わずにまとめている。ウイルスの話と言えば、過去人類は天然痘や牛疫の根絶に成功したということは一般常識としては知らているが、それがなぜできたのか、どういったアプローチで可能としたのかといった話などがまとめてある。

 またウイルスでよく挙がる話といえば「ウイルスとは生命であるのか」というものである。生命の定義といえば自己複製能力を持つことなどが挙げられる(本書では生物学者が提案した定義として「self-reproduction with variations(変異を伴う自己増殖)」を紹介している)が、ウイルスはそれ自体で自己を複製する能力を持たない。必ず他の生命の力を借りる必要がある。私もそういった知識からウイルスは(限りなく生命に近いが)生命ではないと思っていたが、本書を読んでからその認識が大きく変わった。確かにウイルス自身に自己複製能力はないが、彼らは決して装置のような存在ではなく、自然界において重要な地位を持つ生命ではないかと今は考えている。

 そうなると、ウイルスがどのような系譜を持つ生命なのか、非常に気になってしまう。本書による現在の仮説は三つあり、「ウイルスは細胞の出現前より存在していた」、「ウイルスは細胞から逃げ出した遺伝子である」、「ウイルスは細胞が退化したものである」があるそうだ(詳細はぜひ本書を読んでほしい)。一方で、これは別の本ではあるが、ニック・レーン著の「生命、エネルギー、進化」では(うろ覚えで申し訳ないが)エネルギー勾配のある場(アルカリ熱水噴出孔にある微細構造)において細胞の中身ができ、そのあとに細胞膜ができた(ゆえに細菌とアーキア、真核生物は膜構造が異なるにもかかわらずDNAやその転写酵素が共通している)と仮説を打ち立てていた。そうすると、もしかしたらウイルスはそのころから存在していたのではないかと勝手に妄想を膨らませたりできる。このあたり、全然知識がないので勉強しないといけないなと思う。ちなみにこの「生命、エネルギー、進化」は今回紹介している本とは打って変わって専門用語のオンパレードで読むのに時間がかなりかかるが、理解できれば非常に面白い本なので、生命の起源に興味のある人にはぜひ手に取ってほしい本である。

 やはり生物、生命に関する勉強は知的好奇心をくすぐられてしまう。大学の専攻を工学部化学科であったが、理学部化学科にしていればまた違った人生だったかもしれないとふと思う。大学の頃は再生医療に関する研究を行っていたが、非常に難解で勉強量が圧倒的に足りていなかった。こういった本たちに出会えていればより情熱を持ってこういった学問に向き合えていたかもしれないと思うと少しばかり後悔してしまう。過去を悔やんでも仕方ないので、こういった知的好奇心が出ている内に早く次の本を読んでしまおう。