考の証

要は健忘録

【積読1冊目】資本主義リアリズム

 つい先日に入力を増やそうというブログを書き、早速積読を一つ読んだ。読んだだけでは勿体ないなとふと思ったので、その中身の紹介と読んだ感想をブログにまとめていこうと思う。元々、このブログは備忘録として始めたのでちょうど良いだろう。


 今回はふと書店に立ち寄った時に目について買った「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

 本の帯にあった一文に目を引かれ、そのままレジに持ち込んだ。ちょうど買った時は「会社がなぜあんな酷い状態になってでも製品を売っているのか、その原因は資本主義にあるんじゃないか」という八つ当たりに近いことを思っていたことを覚えている。
 今の社会では企業の現在の事業というよりは、今後の事業方針とその実現可能性(あくまで出来るとは言っていない)によって株価が動くといったことを考えると、適当に耳障りの良いことを言っていれば周りが評価してくれるという実態の伴わない成長なのではないかと、そしてそれに巻き込まれているのではないかと思っている。もはや企業は良い印象を持っていることが重要である政治家のようになっている。その政治家は都合の良いマニフェストを挙げれば叩かれて実績を求められている辺り、ここ最近で評価軸が入れ替わってしまったのだろう。

 さて本書を読んだ感想であるが、前提知識がないこともあって結構難しかった。題名にもあるような、たまに日常に顔を出す「リアリズム」「新自由主義」などといった言葉から「ポスト・フォーディズム」「スターリニズム」など、(おそらく)経済学のバックグラウンドがないと理解の難しい言葉が特に注釈もなくわんさか出てくる。一方で、本書は専門書のようなお堅い書物ではなくエッセイ集であるため内容に反してサクサクと読める(むしろエッセイ集であるからこそ言葉の注釈がないのかもしれない)。また、現代社会を評論する際にはカフカといった文豪の作品や20世紀の名作映画などを引き合いに出し説明していることも多く、著者のマーク・フィッシャーの知識の幅広さに驚かされる。まあ私は小説にしろ映画にしろ、主に21世紀に入ってから作られたものを摂取することが多いので、その例えすら分からなかったのだが。やはり過去の名作を知るということは教養として必須なのかもしれない。


 本書で繰り返し述べられる「資本主義リアリズム」とは「資本主義以外の道はないという現実主義を受け入れること」と言い換えられる。正直私が何か述べるよりも後書きの方が当然わかりやすいので、一部を引用する。

特に二〇〇〇年代以降、このような牙を抜かれた左派の例には枚挙に暇がない。いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですか?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。(P.202)

資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務といて受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?(P.205-206)

 こういった現代社会において挙げられる問題を、それは社会が成長する為に必要な事だと蓋をされたものが多いが、取り上げているのが本書である。正直なところ、本書を自分の考えにまで噛み砕いて説明できるほど、まだ私は内容を理解できていない。これからも少しずつ経済系の本を読み、知識が増えたときにもう一度読みたいと思う。

 ここからはまとまっていない私の雑感だが、資本主義の代替案が想像できないというのは社会主義の敗北が大きな原因であることは間違いないだろう。資本家は自らの資本を増やしたいが無茶な要求を行うと労働者から突き上げられ、政治体制を転覆させて社会主義へ変えられかねない。だからこそ、資本家は労働者を労ってきた。それが社会主義国の多くはその政治体制が崩壊してしまった。そうなると労働者は政治体制を転覆させるにも資本主義以外の体制を持ち得ない事態となり、それによって資本家は労働者に対して多少無茶な要求を突き付けても実質的に問題にならないようになったのだろう。そして資本家は自らの自己実現を叶えていく一方で、労働者は現実を変えられないという無能感に陥って現実を受け入れざるをえない。そういった事態が「資本主義リアリズム」に繋がっているのだと思う。本書を読み進めて行くうちに、資本主義はそれ自身が進化することで新しい体制へと移行するのではないかと考えたが、これはどこかに書かれていたかどうかを覚えていない。人工知能などのシンギュラリティを迎えたとき、体制がどのように変わるのかを考えてみるのも面白いかもしれない。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 またここからは全く関係のない話だが、どのようなものにしろ「分からないものを分からないまま次へ進む」というのは非常に大事であると思う。例えば高校の化学では大学で習うような有機化学量子化学を習わないため、原理や法則はわからなくてもこの条件ではこうなるということを暗記する作業になる。自分の高校時代を思い出せば、アルケンへのハロゲン化水素の付加反応ではより水素が多く結合した炭素原子に水素が結合するというマルコフニコフ則はその最たる例であったと思う。一方で、このような「わからない」は何も知らない人に対して急に反応中間体のカルボカチオンが〜とか言っても寧ろ分からなくなる事の方が多いだろう。こういったときは「よく分からないけど、そうなんだ」と思ってやり過ごせば、そのうち必ずその謎が解ける。何もこの話は勉強だけではなく、小説や漫画のような物語でもそうだと思う。開示された設定の根拠が分からなくとも、それが伏線となってのちに回収される事もあるだろう。特に回収されずとも、物語そのものが面白ければその経験はもはや勝ちである。宇宙空間は空気がないから音が伝播しないはずなのにスター・ウォーズだとなんで聞こえるのかなんていうどうでもいい事でスター・ウォーズを楽しめない人はいないだろう。「俺の宇宙では聞こえるんだ」と監督が言っていたそうだし。この例はちょっと極端だが、本の中でそういった分からないことがでても挫折せずに読み進めて行きたい。今回の読書で改めてそう思った。