考の証

要は健忘録

映画「JOKER」の感想と個人的な解釈

 はい、公開1週間以上経ってからやっとJOKERを見ましたのでブログを書いている次第です。JOKERはバットマンの敵くらいにしか知らないし、そもそもバットマンについてもジャスティス・リーグと公開日にやっていたダークナイトを見ただけで何にも知らない。バットマンって異常なタフさを持っているゴリマッチョという印象しかない。
 さて、そんな風にしか知らない映画を見に行く理由は「これ、汚い万引き家族だな?」という期待があったから。万引き家族はとてもいい映画で全てが良かった。そんな期待を胸に、仕事終わりに映画館へ駆け込み夜ご飯がわりのホットドッグをかきこみながら映画を見てました。



 最高でしたね。


 ゆっくりと丁寧に傷を抉り、塩を擦り込まれた後のJOKER登場のカタルシスが凄まじかった。ここまで後味の悪いカタルシスも中々ない。映画を見終わったときに後ろの大学生らしき人が「こんな観るのに疲れた映画は初めてだ」と言っていて、確かに精神的に疲れる映画であることは間違いない。でも一つ言わせてくれ。哭声の方が5千倍疲れるし、同じくらい面白いから見てね。


 初めの場面。閉店セールをやっている楽器屋の前で陽気なピエロが看板を持って宣伝していると、スラムに住むであろう少年たちに看板を奪われる。ピエロが追い掛けると少年たちは路地へ逃げ込み、追いついたと思った時に奪った看板でピエロの顔面を殴り、更に蹴って痛めつけてから金品を奪って去って行く。呻くピエロの絵を移しながら「JOKER」のタイトル。


 おっも。このピエロが主人公だよ。そしてゴッサムシティの治安わっる。


 主人公のアーサーは精神病を抱え、更にふとした時に笑いが意思とは無関係に出てしまう病(?)を持つ。アーサーが笑うのはラストシーンを除いて、決まって泣きそうな時に出ている。まるで泣きそうな自分を騙すようで痛々しかった。物語の初めでは、仕事があって、母がいて、コメディアンになるという夢があって、生活は確かに苦しいし、病気も抱えていたけれど、なんとか生活できていたアーサー。しかし物語が進むにつれて、仕事を失って同僚にも裏切られ、母との信用を失って自ら絆を断ちに行き、コメディアンになるという夢は大衆の笑い者になるという形で踏み躙られる。もともとアーサーを世界と繋げていた縁そのものが失われてしまった。

 地下鉄で身綺麗な格好をした若い三人の男に笑いが出てしまう持病で絡まれ、冒頭のシーンのように殴られ、蹴られた時に同僚から護身用に渡された銃で三人を殺してしまう。まだ、ここであれば戻れたかもしれない。でも、母親が書いた手紙を見てしまい、父親が今度の市長選に出るトーマス・ウェインであることが分かってしまう。当然、ウェインは(おそらく家政婦として働いていた)母親のことなど認知せず、アーサーは母親が養子縁組で引き取った子であることになっていることや、そのあとに母親とアーサーは付き合った男に暴力を振られ、母親は精神を病んだとして病院行きになったことをアーサーは知ってしまう。アーサーの中に父親(のような人)の記憶(ウェインはもちろん、母親と付き合っていた男)がないことや、その頃からアーサーは泣きもせず笑っていたということで、アーサーはこの頃からすでに狂い始めていたんだろうな。まあそんな諸々を知ってしまった上に、自分がコメディアンとしてクラブみたいなところのショーに出た時の映像がテレビで映されて笑い者として取り上げられてしまう。しかも、その番組はアーサーがコメディアンになろうとしたきっかけの一つである司会者のマレー本人が笑い者に仕立て上げていた。辛い。そんな精神状態で、もうまともではなかったんでしょう。劇中で脳卒中で倒れて入院していた母親を手に掛ける。そして母親が死んだことを聞きつけた同僚が家を訪ねてきたが、それは銃を渡したことを警察に隠すために口裏合わせしようとしに来ただけで、この同僚も殺してしまう。元々銃を渡した本人だし、仕事の雇い主に嘘を伝えていてアーサーが失職する原因の本人だからさ、まあそうだよね。ただそんな狂った状態でも、一緒に訪ねて来た他の同僚は自分に優しくしてくれていたということで見逃してしまうくらいには正常だったね。そして反響があったということでマレーの番組に呼ばれる。JOKERとして。


 見ていて辛かった。この辛さも苦しみも、最後のJOKERとしての登場で解放されるけど、この解放のされ方は好き嫌いがはっきり分かれそう。JOKERに共感できるか。共感にも色々あるけれど、仕事や病気といった様々な問題を抱えるアーサーに、貧困に埋もれて誰からの目にも入れないアーサーに、裕福な者たちの犠牲となったアーサーに。どんなアーサーに共感できるか。そしてJOKERになれるか。

 人は簡単に「こうすればいいのになぜしないのか」「そうなったのは自己責任」なんて言うけれど、それは余裕があって裕福な者たちからの何気無い言葉で、言われた方には礫が飛んできたも同然。そんなことができるのであれば、こうはなっていない。アーサーがどうしてそうなってしまったのか。物語の中ではアーサーは常に切り捨てられる弱者で、スラムのガキに、市の財政に、証券のリーマンに、同僚に、コメディアンに、何より実の父親に切り捨てられている。そこにアーサーの人格を見たものはいない。もちろん、母親にも見られていなかったからアーサーは手に掛けてしまった。そこにはアーサーの責任なんてないだろう。最後のマレーとの対談では、マレーは真っ当な価値観を持つ良い人なんだけれど、だからこそアーサーと向き合えずに殺された。そう、綺麗事とか倫理とか、理屈や正義なんてものに押し潰されて見えないものにされたアーサーにはそんな言葉全てが嘘に思えたんだろう。描かれなかったけれど、ゴッサムシティで暴動を起こしていたJOKERたちも、そんな押しつぶされて見えないものにされた人たちなんだろうな。


 JOKERになった人を救う方法なんてない。JOKERを救いたければ共にJOKERとして堕ちて、堕ち続けろ。


 見た人たちで議論が捗りそうな映画でした。