考の証

要は健忘録

言えないことがたくさんある

 最近の休みは、コーヒー豆を友人からもらったのでミルからハンドドリッパーまで揃えてコーヒーを淹れている。なんの知識もないが、今日は我ながら上手く淹れられたと満足した。

 飲み会の次の日には酒が重くのしかかる。ジョッキ4杯のハイボールとスナックで飲んだ薄いウイスキーの水割り程度で二日酔い。常に頭が重く、ふと思い出したかのように吐き気が襲う。思い出すのは吐き気だけでない。

 「お前は闇が深そうだ。」

 他の先輩の女性関係の話なったとき、ふと先輩に言われた言葉。

 「まあ開示してない情報もたくさんありますからね。」

 最初は私自身の話かと思い、そんな返答をしたが、どうやらあの人の中ではその女性関係の文脈はまだ続いていたようだ。勝手なことを言ってくれる。そう思いながら雑談を続けたが、そう発言させたのは、まさに情報を開示しない私なのだと気づく。恋人でも、ましてや血の繋がった家族ですら、言っていないことを察するのは難しい。それを職場の先輩に求めるなんて酷な話だ。ただ、あの人は勝手に自分の中でイメージを膨らませ、それを他人に押し付ける嫌いがある。ふとしたときに言っておこう。これは、私の勝手なイメージかもしれないが。

 でも、たかが職場の先輩に自分の情報をどこまで開示できるのか。


 私は私が嫌いです、認めることができません。私が私を認められるのは、与えられたなにがしかの役割を果たせた時だけです。役割に縋りつかなければいけないのです。与えられた役割を果たせない人間を私は認めることができない。だからこそ、身体が、精神がボロボロになったとしても目の前の役割にすがり続けなければならない。もし、その役割を放棄したときは私が死ぬときです。何をせずとも自分を認めることができる人間を理解できず、その一方で羨んでいます。


 誰かを嫌いになるのが、とても体力を使うことだと知った。だから嫌いになりそうな人とは、嫌いになる前に距離を置こう。そうして早数年、もはや誰に対しても一定の距離を取ってしまっている自分がいた。どんな人に対しても本音を見せることが少なくなってきた。そんな中、頻繁に出張する先が面倒な職場だったので、下手に出て人が良さそうな人を演じた。その結果、そこに馴染み、仕事がやりやすくなった。そんなことを一年も続けると、もう自分の本音とはなにか、本当の自分とはなにかが分からなくなってきた。そもそも、自分に本当な部分があったのかと問い詰める次第だ。


 もう半年前からいつ死んでもいいやという思いが頭から離れない。電車を待つホームで後ろから押されて線路に落ちないか、歩道を歩くときに車が突っ込んでこないか、激務に身体がやられて倒れないか。生活の場には死の果実がそこらに落ちている。死ぬこと、アイデンティティーを確立する思考が奪われることは未だに恐ろしい。でも、その恐ろしさと同じくらい、生きることがどうでもよくなってきてしまった。積極的に死の果実を拾って食さないのは、死を望む気持ちがあるのではなく、生を望む気持ちが消極的になってしまったからだ。


 大学院を卒業し、企業で働くようになって人生の目的が不明瞭になってしまった。お金がもらえて暮らせればそれでいい。それなりの生活はしたいから、それなりの企業で働きたい。面白いと思う仕事は、やはり下っ端の仕事ではなく、上司の仕事。だから、早く実力を認めさせて昇格したい。文に起こせば明るいものになったが、全て消極的選択の上に成り立っている。自分の情熱を注ぐ、命を懸けてやることが見つからない。余らせた命がなにか注ぐわけでもなく、割れ目からただただ漏れ出ている。


 思えば、恋人がいたときにはあらゆる人から丸くなった、柔らかい雰囲気になったと言われていた。こんなどうしようもない自分にも恋人がいれば、変われるのだろうか。自分が相手になにかできることがあるとは思えないけれど、わがままであると承知しているけれど、恋人でも作ってみようか。そんな風に最近は思っている。相変わらず仕事は忙しいし、出張もあるそうだから、当分先のことになるだろうけど。



 休みを喜び、勇んで遊びに行く人のようにできない私は、延々と続く頭痛と吐き気に悩みながら三連休を始めた。特にすることも、できることもない私はひたすらに現実逃避をする。現実から逃れるために、今日も虚構を旅する。