考の証

要は健忘録

帰ってきたら冬になっていた。

 先日ミュージアムを、今日はデスノートを見てきた。

 ミュージアムはニュースでカエル男の正体を知らされて萎えてしまったが、時間があったので見に行ってみた。
 これは終始気分の悪くなるような映画で、あまり好みではなかった。ただ、原作を読んでから思い返すと、この映画は原作を越えたいい映画であったと思う。カエル男の犯行は、それはそれは見てたら気分の悪くなるようなものであったけど、原作はそこまでの描写ではなかった。一つ一つの犯行にしっかり情熱を注いでいたことがわかる。そしてカエル男の演技の良さ。主人公の小栗旬も中々気迫に満ちた演技で、クライマックスは良かった。
 気持ち悪い、グロいという意味では見る人を選ぶであろうが、これは良き実写化映画の一本だと思う。


 そして今日見たデスノート。これはひどかった。ストーリーは2時間という短い時間に収めようと、上手く凝縮してまとめきれていたとは思う。だが、肝心の中身がない。ほぼ原作のオマージュで終わる。本作での新要素は、デスノートが6冊あるというだけ。役者の演技も癇癪持ちかよっていうぐらい、キレまくるばかりで冷静さのれの字もなかった。脚本なのかもしれないけれど、もっと落ち着いた心理戦を見せて欲しかった。
 この映画に関して言えば、原作という名の親の脛を齧るだけの映画だったと思う。良かったのは年齢を重ね美人になったミサミサだけだった。



 と、しばらくの出張が明けてから暇を持て余している私です。出張に行く前には少し暑い日もあったというのに、帰って来れば息も白い冬に変わっていた。今回の出張は凄まじい連勤であったことを除けば、まあ人道的な範囲の勤務であった。だが作業量が尋常なく増えたこと、異動等もあり初めての出張者が居たこともあり、私には凄まじいストレスがかかってきた。目の前にはこなさなければならない仕事があるというのに、それを自分では扱わず他人に任せなければならなかったこと。そして予定が過ぎてもその仕事が終わらない。そんなことも気にせずに仕事は次々降り注いでくる。
 そんな中思ったことは、やはり人間は容易く変わることができないのだという実感。しばらく鳴りを潜めていた人格が目覚めたような感覚。上昇志向のない、やらなければならないことに対する執着心のない人に対する苛立ち。これは自分の歪んだ性格に起因した、自己肯定を得るための行為をいつの間にか他人にも求め、その行為をしないことが理解できないという理不尽な思考に根付いたものであることは理解している。多分、自分が求めているレベルに達していない人は、それが自分であろうと他人であろうと許せないのだろう。なんて面倒な人間だろうかと、今これを書きながら思っている。

 そして帰ってきた。何もすることがない。急に束縛から解放されても、その時間を持て余してしまう。こんな時、大多数の人は何をしているのだろうかとぼんやり考えていた。そして、みんな友人や恋人とこの暇な時間を過ごして潰しているのかと思い、納得してしまった。不定期に長い出張がある身としては、まともな交友関係を築こうとは思えない。これは言い訳になるんだろうか。元々基盤のある人間が関係を広げるのは楽だが、その基盤を持たない人間であれば、この出張というのは重い枷になる。

 ああ、早くこの呪縛から解放されたいと切に願う11月であった。