考の証

要は健忘録

始まり

 某社畜アカウントに触発されてブログを開設した。以前から日頃から文章を綴っていきたいと考えていたが、こういうきっかけがないと始める気にすらない。この辺りは怠惰な人間性が現れている。そしてこのブログがいつまで続くかというのも気になるところである。そんなこのブログは単なる日記として自らの生活を、そしてそこで考えたことを綴っていくつもりである。「生の証、考の跡」というタイトルはその意味でつけた。何と読めばいいのか、本人もよく考えずにつけたのでいい案があれば今後変えるつもりである。


 最近は仕事が忙しくなってきた。私が配属された部署は社内でも有名なブラックな部署として名を馳せており、今はその意味を噛み締めるばかりである。仕事をしている人にも目をくれず、容赦なく定時で帰っていた頃がもはや懐かしい。平日は仕事に追われ、家に帰れば食欲と睡眠欲を満たすだけの生活である。そして休日は平日の疲れをなくすという名目のため、部屋にこもってダラダラと過ごすだけの生活である。正直、休日に何をやっているのか記憶があまりない。一体、何のために生きているのかと問われれば、「生きているから。」としか返せない大変残念な生活だと心底思う。大学生のときは部活、大学院生のときは研究に明け暮れていたことを考えれば、社会人のときは仕事をしているのが正解ではある。だが、そんな生活は御免である。つまり、働いてから休日にすることがないのは、これまでの人生を振り返れば当然なのである。

 最近、夢をみた。昔付き合っていた彼女に再会し、昔のように話しながらデートする夢だ。全くもって虚しい夢である。現実に再会したとしても、嫌悪感などよりもまず申し訳なさが前に立ち、昔のように振る舞うなど絶対に無理だろう。そもそも彼女と別れて以来、他人に対して期待せず、自らの心を開かず、表面上は良好な関係を築いてきた私にとって、そのような振る舞いはもはや誰に対しても無理なのである。気付けば、私は最もなりたくないと思った人間になってしまった。全くもって笑えない話である。そしてそんな夢を見たせいだろうか。心から一緒にいたい人と過ごす日々は幸せなのだろうという思いが私の中で生まれる。他の人はみんな、そんな生活をしているのだろうと少し羨ましく思う。だが、それは私がそう願い、行動すれば叶えられる類のものだ。甘いと知っている葡萄に手を伸ばせないでいる私は、手を伸ばさない理由を必死に探している。きっかけがないと嘆きつつ、何も行動せずに済む現状に安堵している。


ここまで書き、自分の文章力や展開力のなさに呆れてしまった。だが、これから少しずつ改善されていくだろうことを祈りつつ、この日記を始める。