考の証

要は健忘録

【積読4冊目】バッタを倒しにアフリカへ

 休日、今日は外に車で買い物に行ったのに本を2冊読めた。普段自分がどれだけ無駄な(?)時間を過ごしているかが分かる。子供の頃は本を読むのに時間がかかっていたが、今では普通の小説であれば3時間程度で読めるようになったのはやはり経験値がモノをいうのだろうか。自分の専門分野ではない本を読むときは三行読んで五行戻ることもあるので、そう思うと流し読みしているだけな気もする。

 本日2冊目の本は前野ウルド浩太郎氏の「バッタを倒しにアフリカへ」である。確かこの本を知ったのはTwitterだった気がする。なんでも、バッタが好きで触れ合いすぎたらバッタアレルギーになったバッタ研究者がいるらしく、そんな人が書いた本があると。実際、読んでみるとマイナー分野でPh.Dを取った人がその分野で飯を食っていくために定職を得るまでの話であった。地味に笑ったのは、てっきりアフリカでサバクトビバッタの研究をしてからアレルギーになったかと思っていたら日本の大学院時代には既にバッタアレルギー持ちになっていたところである。端折られているだけで、この人日本にいるころから相当バッタと触れ合っていたのだろうか。そもそも虫アレルギーってなんなんだ・・・?そんな疑問もつい出てきてしまう。

 本書の内容は上記にある通りだが、バッタ研究のフィールドワークという誰もやっていないような分野を、しかも日本から遠く離れたモーリタニアというアフリカの国に一人単身で渡り、ポスドクの任期も終わり無収入のまま、時には干ばつに見舞われてバッタがいないといった事態に巻き込まれながらも、その日々を著者の底抜けポジティブな語り口で書かれた本である。意外に思ったのはサバクトビバッタの研究は、今年ニュースに大きく取り上げられていたが、フィールドワークでの研究が行われておらず、蝗害対策も殺虫剤による対症療法的なものであったことだ。確かに、映像で見ると一面バッタだらけで空も埋め尽くす群れを見ると結局のところ殺虫剤で対処するのが一番コストパフォーマンスが良いのだろう。本にある通り、これは数年に一度程度起きるもので毎年起きるものではないこともそういった現状維持をしている原因であるのかもしれない。
 そんな真面目な感想もあるが、本書の面白いところはバッタの研究以外にも普段のモーリタニアの生活などの失敗談等も混みに赤裸々に語っているところだろう。きっと、この本には面白おかしく書かれているが、その当時は本当に大変であっただろうし、たくさん悩んでいたと思う。実際、ポスドクの任期が切れて無職のままやりたい研究を続けるか、日本に戻ってバッタ以外の研究を行うかを悩んでいるところは非常に辛かったんだろうと思う。このときに著者が世話になっていた研究所のババ所長の「つらいときは自分よりも恵まれたものたちを見るな。みじめな思いをするだけだ。(中略)嫉妬は人を狂わす。(P.264)」というのは真理だと思う。このババ所長は子供の頃に死にかけた経験をした後に、これから先の人生はないものだと思い人のために働きたいと親の反対を押し切って勉学に励み、サバクトビバッタの研究所に入って蝗害と戦う人なのだが、めちゃくちゃに人が好さそうなのが伝わってくる。やはり現場で働く人には頭が上がらない。
 個人的に好きなエピソードはモーリタニアへ行った年に干ばつによってサバクトビバッタが現れなかったときにゴミムシダマシの話である(バッタの本なのに)。おびき寄せるスパゲティを腹いっぱい食べて動けなくなるところも良いが、食べ過ぎて体が膨らんで首-胴体の節が伸びる話やその状態で首を押し込むことで腹の先から生殖器が飛び出して雌雄判別ができる話など、本当の話かと思うくらい面白い。しかもその後ゴミムシダマシで実験をしているとハリネズミに食われてしまい、そのハリネズミを捕まえて監禁という名目で飼ったり、すっかり忘れた頃に再登場するところも良かった。
 そういった研究の他、サバクトビバッタの研究で食べていくために日本での啓蒙活動(?)をしていく中で多くの人と繋がったり、職を得るための面接の話などもあた。特に前者ではやはり一つの夢や目標に向かって全力を尽くしている人には同じように志の高い人たちが集まるのだなと思った。全力で人生を生きている人たちを見ると羨ましく、そういった目標を人生で持ちたいなと思う。またそういった人たちとの話や後者での面接の話の中で思うが、やはり「見ている人は見ている」のだ。だからいくら周りが馬鹿にしていても、誰からも見られていないと思っていても、しっかり仕事を出していればいつか、誰かがそれを必ず見つけてくれて、そして認めてくれるのだなって思う。

 本書では研究そのもの話というよりは、エッセイに近いものかもしれない。バッタや研究のことが分からなくても楽しく読める本で誰にでも勧められると思う。これから日本でもサバクトビバッタの研究が盛んになるといいなぁと思わせる本でした。

【積読3冊目】ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在

 久しぶりの更新。休日も少し忙しかったりして落ち着いて過ごす日がなかったが、これからは休日は、というより平日も大分時間を取れるそうだ。それがわかっていたため、積読は減るどころか増える一方で気付けば30冊は余裕で越えていそうだ。だいたい一冊3日かけるとしても90日で読み切れると思えば、そんな積んでいないかもしれない。そもそも積んでいる中には普通の小説もあるため、毎日読書すればもっと早い段階でなくなるかもしれない。

 そんなこんなで、久々の積読消化は「ウイルスの意味論-生命の定義を超えた存在」である。この本は以前本屋に行ってぶらぶら時間をつぶしていた時に目に入って買った本だ。最近は新型コロナウイルスの話題が尽きないが、そういった時事的な要素もあり平積みされていたのかもしれない。

 内容は「ウイルスとは何か」といった話から始まり、ウイルスをどう人類が発見したのかといった始まりから現代までのウイルス学に関して各章ごとに書かれている。こういった本は難解であると思っていたが、読んでみると大学一年生の教科書のようにわかりやすく、ウイルスとは何かを勉強するにはうってつけの本であると思う。というのも、本書はウイルスの発見から現代までの歴史(科学史にならってウイルス学史というのだろうか)を小難しい用語を使わずにまとめている。ウイルスの話と言えば、過去人類は天然痘や牛疫の根絶に成功したということは一般常識としては知らているが、それがなぜできたのか、どういったアプローチで可能としたのかといった話などがまとめてある。

 またウイルスでよく挙がる話といえば「ウイルスとは生命であるのか」というものである。生命の定義といえば自己複製能力を持つことなどが挙げられる(本書では生物学者が提案した定義として「self-reproduction with variations(変異を伴う自己増殖)」を紹介している)が、ウイルスはそれ自体で自己を複製する能力を持たない。必ず他の生命の力を借りる必要がある。私もそういった知識からウイルスは(限りなく生命に近いが)生命ではないと思っていたが、本書を読んでからその認識が大きく変わった。確かにウイルス自身に自己複製能力はないが、彼らは決して装置のような存在ではなく、自然界において重要な地位を持つ生命ではないかと今は考えている。

 そうなると、ウイルスがどのような系譜を持つ生命なのか、非常に気になってしまう。本書による現在の仮説は三つあり、「ウイルスは細胞の出現前より存在していた」、「ウイルスは細胞から逃げ出した遺伝子である」、「ウイルスは細胞が退化したものである」があるそうだ(詳細はぜひ本書を読んでほしい)。一方で、これは別の本ではあるが、ニック・レーン著の「生命、エネルギー、進化」では(うろ覚えで申し訳ないが)エネルギー勾配のある場(アルカリ熱水噴出孔にある微細構造)において細胞の中身ができ、そのあとに細胞膜ができた(ゆえに細菌とアーキア、真核生物は膜構造が異なるにもかかわらずDNAやその転写酵素が共通している)と仮説を打ち立てていた。そうすると、もしかしたらウイルスはそのころから存在していたのではないかと勝手に妄想を膨らませたりできる。このあたり、全然知識がないので勉強しないといけないなと思う。ちなみにこの「生命、エネルギー、進化」は今回紹介している本とは打って変わって専門用語のオンパレードで読むのに時間がかなりかかるが、理解できれば非常に面白い本なので、生命の起源に興味のある人にはぜひ手に取ってほしい本である。

 やはり生物、生命に関する勉強は知的好奇心をくすぐられてしまう。大学の専攻を工学部化学科であったが、理学部化学科にしていればまた違った人生だったかもしれないとふと思う。大学の頃は再生医療に関する研究を行っていたが、非常に難解で勉強量が圧倒的に足りていなかった。こういった本たちに出会えていればより情熱を持ってこういった学問に向き合えていたかもしれないと思うと少しばかり後悔してしまう。過去を悔やんでも仕方ないので、こういった知的好奇心が出ている内に早く次の本を読んでしまおう。

映画「AI崩壊」の感想と考察

 「AI崩壊」は見る気はない映画でした。元々邦画はあまり好きではないのが原因だが、正直その理由は自分でも良く分かっていない。万引き家族は破茶滅茶に好きなのだけれど、他の邦画は作りが甘いというか、物語そのものに魅力をあまり感じていないのかもしれない。はたまた、大画面で見るのが同じ日本人であるために虚構の中と分かっていても現実味を感じて嫌なのかもしれない。どうなんだろう。
 そういう風に思っていたけれど、AIの描写は本当の研究者が監修しているとの情報があったり、Twitterのたまに流れてくる感想では意外と高評価であったり、更にたまたま今日が1日で安く映画が見られると気付いたので行くしかないということで言ってみました


 結論から言うと、意外と面白かったです。


 元々は創薬系の研究でAIを活用していた桐生浩介は妻・のぞみのがんを治療するために医療AI「のぞみ」を開発したが、厚労省の医療機器申請が通すことが出来ずに妻を亡くしてしまった。その後、医療AI「のぞみ」は医療機器申請が通り、日本中に普及して全国民の個人情報と健康を管理していた。一方で桐生浩介は一人娘の心とともに妻の遺言である「これからはプログラムを書かずに娘としっかり向き合ってほしい」という願いに応え、シンガポールでAI研究とは無縁の生活を送っていた。移住してしばらくして、妻の弟である悟から医療AI開発に携わった桐生に総理大臣賞が渡されることが決定したこと、またその授与式に出てほしいことが伝えられた。初め桐生は日本へ行くことを躊躇っていたが、心の「父さんの作ったAIを見たい」という想いに応え、久し振りに日本へ帰国。そして悟が代表取締役を務めるHOPE社にて医療AI「のぞみ」を見学した後に内閣府へ向かう際、突如として「のぞみ」が暴走。もはや日本のインフラとして機能してた「のぞみ」の暴走はAI補助を受けていた医療機器の停止を招き、次々と入院患者やペースメーカーを持つ人々が亡くなった。この暴走の犯人としてテロリストの容疑をかけられた桐生は警察に追われてしまう。そんな中、「のぞみ」はネット情報から突如学習し始めた。人々が生きるに相応しいかの価値を。


 というあらすじでした。元々医療AIとして開発された「のぞみ」は人々の生命を任されるものであるため、その機能を制御するために一部の学習機能は組み込まれていなかったようだ。その枷を外して学習の方向性を誘導した犯人は誰なのか、その目的は何なのかというSF要素の他にもミステリ要素もあるが、犯人候補は少ないために見ていれば誰かは普通に分かる上に動機についてもまあまあ予想できるところではある。

 人に関する物語は普通でしょうか。作りが甘いところもあるように思える。というのはやはり最後の犯人の動機が分かるところである。おおよそ、ゲームでもあるように悪役というものは追い詰められてもいない、言う必要もないのに自分の目指すものについて話してしまうものである。本映画でもその通りで、わざわざ話す必要もないのに得意げにベラベラ喋っていたら、桐生がハッキングした虫型ドローンを介して日本中に中継されてしまい、間抜けな自白をしてしまったというオチである。また、その動機も「医療AIの持つビッグデータを手に入れるため」「少子高齢化が進み、詰んだ日本を立て直すにはAIによる選別を行って価値のない人間を排除する必要がある」との月並みなものである。ここの自白については、犯人の生い立ちなどの深堀がなされていないのであまり感情移入しづらいために、よくある盲目なエリートによる独裁みたいな感想しか出てこない。つまるところ、こういう思想を有する人は他人に対しても自分に対しても想像力が根本的に足りていないのだ。「生命の選別を行った際、必ず自分は世界に対して有益である」などと言うことを根拠なく信じており、自分が選別により命を落とすことなど微塵も考えていない。例えば、今回の犯人が不治の病を持つ病人であり、安楽死を求めていたのに医療AIはひたすらに生き続けることを求め続けるために地獄のような日々を送っていた、なんて背景があればもう少し共感できたかもしれない。かも。

 一方で、AIに関する描写はかなり作り込まれていて良かった。テロリスト容疑をかけられた桐生は逃げる先々に警官が配置されているのだが、これは警察が有するAIが監視カメラやドライブレコーダー、はたまた通行人のスマートフォンから映像を画像解析することで桐生を追い詰めていたからだ。画像認識と言いつつも、顔や体格だけでなく三次元モデルによる骨格や歩き方といった動作による照合を行っており、顔を隠す、服を変えるなどといった生半可な手段では逃げることができない。桐生は自身の有する電子デバイスを全て廃棄、建設中の地下水路を通ることで警察の目を巻くことに成功している。また作中の後半では逆に警察AIをハッキングして他人を「桐生浩介である」と認識させると言う荒技を見せているが、主人公の優秀さを示すこと、この状況をどうやって打ち破るかといったところに爽快感があって良い演出であると感じた。


 個人的に一番良かったのはクライマックスの「のぞみ」を止める演出だった。「のぞみ」の学習を止める為の改良プログラムは完成したが、「のぞみ」自身は外部からのアクセスを受け付けなかった。その為、サーバールーム内にある「のぞみ」の外部認識カメラから直接プログラムを読み込ませる必要があった。娘の心は訳あって「のぞみ」のサーバールームに閉じ込められており、このプログラムを読み込ませるのに心が活躍するのだが、それはシンガポールでの父との何気ない日常の記憶がきっかけであると言うのがまた良い。「のぞみ」の暴走が止まった後、桐生は心の元に駆けつけて抱きしめるのだが、その時に言う「父さん、汗臭い」と言うセリフが良かった。冒頭では父親を鬱陶しく思って言ったセリフと同じものなのだが、このラストシーンでは父親が来たことの安心感と自分を助ける為に奔走したことに気付いて愛されていると感じたと言う暖かいセリフになっている。こういうセリフの使い回しは創作では使い古されているかもしれないが、やはり何度も使われる理由は単純に素晴らしいものだからだと思う。王道は面白いから王道なのだ。

 またこのクライマックスにて、「のぞみ」の暴走を止めたのは学習プログラムの停止や現行機能の停止、初期化などではない。学習するというもはや枷を外されたAIに対して「自らが作られた理由を思い出せ」という指令であった。この描写は好き嫌いが別れるかもしれないが、私は最高に活かした指令であると思う。もはや思考に制限が掛けられずに暴走したAIに対して、自らのアイデンティティを確立させる。なぜお前が作られたのか、何が望まれているのか。そしてそれは人々を救う為である。その名前の由来であるのぞみが望んだことは「病で苦しむ人々を救う」こと。AI「のぞみ」はその自らのアイデンティティを確立したこと、何故この世に自らが生まれたのかを理解することで暴走を止めた。そして、それまでは少しばかり古い電子音のような「のぞみ」の声はまるで肉声のようなものに変わっていた。この変化が示すことは「のぞみ」がもはや元のAIではなく、意志を持ち、自らを進化させ続ける全く新しいAIとなったということである。なんで近未来の話なのに音声が古いんだろうと思ったらこの描写をしたかったからかと気付いて膝を打った。これはその後の犯人の独白からも示唆されている。この犯人は嫌いだったのでなんだこのシーンはと思ったが、後になって「のぞみ」の進化を示唆する重要なものだったのだと気付いた。また劇中ではAI嫌いの記者から桐生は「AIは人を幸せにするのか」と問われており、その答えとして桐生は心に「さっきの問いは『親が子を幸せにできるか』と言い換えられる」と言っている。つまり、結局のところ人間が正しい知識と正しい判断をする必要があり、AIは単なる手段に過ぎず、全ては人が決める事だと言っていた。


 やはりこの映画の真価は最後の「のぞみ」のアイデンティティの獲得による暴走阻止とAIとしての進化である。それを示したラストシーンがとても良かった。流石、研究者が監修したというだけはあると思う。SF映画としてAIに関する描写はとても優れていた。一方でストーリーとしては桐生の義理の弟である悟がとても好きで、もっと彼のことを掘り下げて欲しかったとも思う。映画という枠組みではあれこれと詰められないのでこうなったのだろうと惜しく思うが、2時間という限られた時間でこれほどのストーリーを展開できたことは非常に高く評価すべきだ。

 そう言った訳で、AI崩壊はSF映画が好きな方は一度見ても良いのではないでしょうか。

【積読2冊目】ケーキの切れない非行少年たち

 年末は長いこと体調を崩していたが、また今週の初めあたりから体調を崩してしまった。風邪やらなんやらで、免疫力が落ちているんだろうか。しっかり栄養を取って休むことを勧められたが、栄養とか何も考えずにひとまず野菜や果物食べてればいいだろうの精神で自炊しているので、これからは反省したほうが良いのかもしれない。


 さて、今回は去年Twitterで話題になった「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだ。本書は児童精神科に勤務していた著者が非行少年たちのことを知るために医療少年院に勤務し、その経験を書いたものである。

 内容に入る前に犯罪を犯した未成年は少年法で守られていることに対して、反感を持っている人も多いのではないだろうか。かくいう私も、そう思っていた。少年法が成立された昭和23年と現代では時代が変わっている。当時は戦後ということもあり、困窮した少年(ここでいう少年は男に限らず女も含まれる)による窃盗や強盗が急増したことから、そういった少年を保護、再教育することが目的であった。それに対して今ではそういった生活が困窮したことが原因であることよりも、他の(「どうしてそんなことをしたんだろう」と首をかしげるような)理由のものも多く見られるように思える。これはそういった犯罪の方がセンセーショナルで報道が盛んにおこなわれることが原因の一つであると思われるが、生活レベルに関しては戦後と比較した場合は圧倒的に良くなっているといえるだろう。そういった理由から、私も少年法は改正、成人と同様にしても良いのではないかと考えていたのだが、本書を読み、その考え方が大きく間違っていることに気付かされた。

 いわゆる非行少年たちはなぜ犯罪に手を出すことになるのか。それは(全員とは言えないが)少年たちの生まれ持った性質に依るところが大きいと本書では述べられている。原因としては最近認知が広まってきている「発達障害」やまだ浸透はしていない「軽度知的障害」といったものと、それを有する少年たちの環境の問題があった。そういった障害を有する子でも、親がそれに気付き、病院へ行くような環境の子であればそういった非行に走ることは少ない。一方で、そういった障害が気付かれなかった少年は、「勉強ができない」「人間関係が上手く築けない」「それらが原因でいじめられる」などといったストレスを受け続ける。更に、学校という環境では(実際に効果があるかは不明だが)教師が面倒を見ようとするが、学校を卒業するとそういった眼からも離れ、孤立化することが非行へとつながる原因として挙げられていた。これらの原因として最も問題であるのは、そういった原因が周りの大人だけでなく本人ですら気付けずに放置され、適切な支援が受けられないことであると本書では述べられていた。

 本書では、そういった少年たちが世界をどう認識している(できていない)のかということを「ケーキが切れない」と具体的な例を挙げつつ紹介している。彼らは(IQ100程度の人と比較して)「見る」「聞く」などといった認知機能が低く、情報を正しく得られていない。そういった認知機能の低さから「勉強ができない」「コミュニケーションがうまく取れない」などの症状として表れるため、そういった子たちの支援ではまず認知機能の向上から取り組む。そうしなければ、そもそも自分の犯した犯罪の重さに気付くことができないそうだ。また犯罪を行った理由として、上記の症状やそれによるいじめなどのストレスをため込むことが原因であることから、被害者が加害者に転ずるが多い。彼らが適切な支援を受けられていれば、(必ず解決するとは言えなくとも)症状の改善傾向が見られ、そもそも彼ら自身が被害者にも加害者にもならずに済む。現在はそういった支援は少年院でしなければならない現状ではあるが、そういったサインは主に小学2年生から表れるため、学校での支援が被害者・加害者を生まないために重要であるとも述べられていた。


 本書を読んで思うことは、私は過去出会ってきた人のことを思い出した。勉強ができずに周りから浮いていた子がいた。話しているところを見たことがなく、何を考えているかわからない人がいた。仕事が不思議なほどできずに嘘をつく人がいた。そういった人たちはもしかしたらそういった支援を受けられなかったのかもしれない、と。
 ただこういった話をするとき、必ずといって差別の問題も出てくるだろう。例えば、Twitterで投稿した実録話に「それは発達障害の症状と思われるから医者に行った方がいいと思います。」のような素人による決めつけ、レッテル貼りが行われるところを見たことがある。それは善意かもしれないが、医者でもなんでもない人間が他人に向けて「あなたは障害を持っているのでは」なんていうのはたとえそれが真実であってもとてつもなく失礼にあたることだろう。似たような話を扱っていた某饅頭のフォローを外したのも、彼の背後にある差別意識がありありと見られたことが原因であった(また資料も正確に引用せずに自分の言いたいことに資料を寄せて使っていたところもどうかと思っていた)。

 ではどうしたらよいのか。正直、素人である自分には直接相手に何かできることはない。一方で、間接的ではあるが本書を紹介し、認知度を上げていくことが時間はかかるが自分にできる精一杯ではないかと思っている。そういった訳で、本書に興味を持った方はぜひ手に取り、読んでもらいたい。

 また、直接本書には関係がないが、そういった生まれ持った性質や環境といった本人にはどうしようもないモノに対して、どう社会は保証していけるのだろうか。これは、IQが低いといったことや家庭環境が悪いといったものだけでなく、その逆の場合でもそうだろう。頭が良かったり家庭環境が良かったりする人は、概して努力をすれば問題は解決できると思っているところがあるが、その努力は本当に当人の意思に依るところなのだろうか。たまたま出来の良い頭に、良い家庭環境のところに生まれたからではないのだろうか。もしそうであれば、今自分が不満ない環境で生きていけていることはただ運が良かっただけではないだろうか。「こうはなりたくない」と思う人は誰にでもいると思うが、あなたはその人に生まれたらそうならない自信がありますか、と。これは答えが何もないし、だからどうかという話でもないし、まとまりもないので今回はここで終わり。
 

カレーのレシピ Ver.2.0

 この三連休は少し時間を持て余しているところもあり、ちょっと料理に力を入れてみた。先日ボロネーゼを食べたときに、これは家でも作れるなと思ったので作ったのだが、味付けする前の工程まではいつも作っているキーマカレーと同じだと気づいた。
 そういう訳でそこで培った経験を生かしてカレーを作ってみたところ、美味しくできたのでちょっとブログにまとめようと思う。
 本当はさっきのデザインの話と同じところにまとめようと思ったが、さすがに全く関係ない内容を二つ乗せるのはどうかと思い、またよく話をするときに話題が多すぎると言われるを思い出したので今回は分割した。

<材料 4人分くらい>
・オリーブオイル 大さじ3杯
・にんじん    1本   (150~200g)
・たまねぎ    1コ   (150~200g)
・セロリ     1/2本 (100~150g)
・にんにく    1~2欠片(量は完全に好み)
・ひき肉     300g

ローリエ    2枚
・赤ワイン    200cc
・トマト缶    1缶 (ホールトマトでもカットトマトでもよい)
・カレーフレーク 90g(横濱船来亭カレーフレークを使ってる)
ウスターソース 大さじ2杯
・砂糖      小さじ1杯~大さじ1杯
・95%チョコ  1~2欠片

<手順>
 1.にんじん、たまねぎ、セロリ、にんにくをみじん切りにする。ひき肉は冷蔵庫から取り出す。
 2.オリーブオイルをフライパンに引き、にんにくを加えて点火する。
 3.中火でにんにくを1~2分ほど炒めて軽く色がついたらにんじん、たまねぎ、セロリを加える。
 4.中火で30分程度炒める(ソフリットを作るイメージ)
 5.炒めた野菜を鍋の外側に寄せ、中に塩コショウを振ったひき肉を塊のまま加えて強火にする。
 6.両面を軽く焦げる程度まで火を通す。
 7.中火に戻して赤ワイン、ローリエを加える。
 8.ひき肉を崩しつつ、赤ワインの水分が飛ぶまで中火にかける。
 9.トマト缶、カレーフレークを加えてトマトを崩しながら全体が均一になるよう混ぜる。
10.弱火にしてウスターソース、砂糖、95%チョコレートを加えて味を調える。

 そんなレシピでできたカレーがこちら。

 隠し味の砂糖は辛口でない限り必要ではない。ちなみにこの砂糖は甘くするためではなく、辛味を引き立てるためのものだ。あと95%チョコレートは本当に入れた方がいい。味の深みが全然違う。
 今回はボロネーゼを作るときのソフリット、そして赤ワインで一度煮込むという手順をレシピに加えた。またボロネーゼではひき肉を塊のまま両面が少し焦げる程度焼くのだが、そうすることで肉の香ばしさがつくらしい。そういった手順を加えたおかげか、いつもカレーフレークを加えてから何か物足りないと思って色々味を調えるのだが、今回はフレークを入れた時点で美味しさが全然違った。

 ほんと美味しいので作ってみてほしい。あとこうしたらもっと美味しくなるとか知っている人いたらぜひ教えてください。

「体験」を作るというデザインのお話

 最近は比較的暖かい日が続いている。コートを羽織る程度で丁度良いような、気持ちの良い日差しが射す小春日和であった。今年の冬は暖冬傾向にあるというが、去年よりもその傾向は強いように思える。その証拠にスキー場の雪が少ないというニュースを見た。確かに例年行くスキー場は雪が少なくそもそも開いていないようだ。これはスキーやスノーボードをするには新潟といった北陸や北海道に行くしかないのだろうか。一方で北海道でも雪が降らずに土埃が舞うといったニュースも見ているので、今年は滑れないと思ったほうが良いかもしれない。

 この三連休はふと見た駅の広告にあった建築系のデザイン展に行ってきた。
www.nmao.go.jp

 建築系には教養がないが、特に予習もせずに興味を惹かれたという理由で行ってきた。そもそも美術館で開かれる催事に対して教養なんてなにも持っていないのだが。
 これは「Impossible Architecture」 という、実現しなかった建築物に関する展示会である。最初はソビエト連邦にて技術的に当時作ることのできなかった建築物に始まり、コンペで選べれなかったが話題を呼んだ建築物、果てには記憶に新しい新国立競技場のザハ案などがあった。他にはこれまでの無機的な建築物に代わり、有機的な建築物を目指すといったものもあった。
 すべての建築物デザインにも言えるが、あくまで建築物は手段であり、それにより達成したい目的がある。例えば、ソビエト連邦のものでは自国の技術や社会主義を優れたものであるというプロパガンダがそれにあたる。有機的な建築物は今でいうSDGsの考え方に近いものが感じられた。

 これは以前の「デザイン思考」のセミナーの受け売りであるが、デザインとは外観のことではない。デザインとはそれがどのように使われるのか、使うことでどのような効果が得られるのか、といった「体験」を想像してそれに適した物を設計することであるといえる。それで初めて目に入る情報が外観なのであり、それは体験の入り口に過ぎない。この前行ったデザインの原画展でも思ったが、彼らは外観をデザインしているように見えがちだが、その裏には成果物がどのような体験を与えられるかまで細かなところまで気を配られている。

 職業柄、素材を作って売る仕事をしていることもあり、いわゆる「イイモノ」を作ることが求められている。一方で、モノの機能や性能などは上限に達し始めていることにも薄々気づいており、これまで通りのモノづくりでは成長できないであろうことも想像に難くない。そういったこともあり、これからはデザイン思考を取り入れて仕事をした方が良いかもしれないと思うところもあり、こういった展示会へ顔を出しているが、勉強の入り口として本を読むのも良いかもしれない。そう思って今日は帰りに本屋によってデザイン思考の本と、ほかに惹かれた本を2冊程度買った。積読が捗る日々であるが、しっかり消費せねば。

【積読1冊目】資本主義リアリズム

 つい先日に入力を増やそうというブログを書き、早速積読を一つ読んだ。読んだだけでは勿体ないなとふと思ったので、その中身の紹介と読んだ感想をブログにまとめていこうと思う。元々、このブログは備忘録として始めたのでちょうど良いだろう。


 今回はふと書店に立ち寄った時に目について買った「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

 本の帯にあった一文に目を引かれ、そのままレジに持ち込んだ。ちょうど買った時は「会社がなぜあんな酷い状態になってでも製品を売っているのか、その原因は資本主義にあるんじゃないか」という八つ当たりに近いことを思っていたことを覚えている。
 今の社会では企業の現在の事業というよりは、今後の事業方針とその実現可能性(あくまで出来るとは言っていない)によって株価が動くといったことを考えると、適当に耳障りの良いことを言っていれば周りが評価してくれるという実態の伴わない成長なのではないかと、そしてそれに巻き込まれているのではないかと思っている。もはや企業は良い印象を持っていることが重要である政治家のようになっている。その政治家は都合の良いマニフェストを挙げれば叩かれて実績を求められている辺り、ここ最近で評価軸が入れ替わってしまったのだろう。

 さて本書を読んだ感想であるが、前提知識がないこともあって結構難しかった。題名にもあるような、たまに日常に顔を出す「リアリズム」「新自由主義」などといった言葉から「ポスト・フォーディズム」「スターリニズム」など、(おそらく)経済学のバックグラウンドがないと理解の難しい言葉が特に注釈もなくわんさか出てくる。一方で、本書は専門書のようなお堅い書物ではなくエッセイ集であるため内容に反してサクサクと読める(むしろエッセイ集であるからこそ言葉の注釈がないのかもしれない)。また、現代社会を評論する際にはカフカといった文豪の作品や20世紀の名作映画などを引き合いに出し説明していることも多く、著者のマーク・フィッシャーの知識の幅広さに驚かされる。まあ私は小説にしろ映画にしろ、主に21世紀に入ってから作られたものを摂取することが多いので、その例えすら分からなかったのだが。やはり過去の名作を知るということは教養として必須なのかもしれない。


 本書で繰り返し述べられる「資本主義リアリズム」とは「資本主義以外の道はないという現実主義を受け入れること」と言い換えられる。正直私が何か述べるよりも後書きの方が当然わかりやすいので、一部を引用する。

特に二〇〇〇年代以降、このような牙を抜かれた左派の例には枚挙に暇がない。いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですか?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。(P.202)

資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務といて受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?(P.205-206)

 こういった現代社会において挙げられる問題を、それは社会が成長する為に必要な事だと蓋をされたものが多いが、取り上げているのが本書である。正直なところ、本書を自分の考えにまで噛み砕いて説明できるほど、まだ私は内容を理解できていない。これからも少しずつ経済系の本を読み、知識が増えたときにもう一度読みたいと思う。

 ここからはまとまっていない私の雑感だが、資本主義の代替案が想像できないというのは社会主義の敗北が大きな原因であることは間違いないだろう。資本家は自らの資本を増やしたいが無茶な要求を行うと労働者から突き上げられ、政治体制を転覆させて社会主義へ変えられかねない。だからこそ、資本家は労働者を労ってきた。それが社会主義国の多くはその政治体制が崩壊してしまった。そうなると労働者は政治体制を転覆させるにも資本主義以外の体制を持ち得ない事態となり、それによって資本家は労働者に対して多少無茶な要求を突き付けても実質的に問題にならないようになったのだろう。そして資本家は自らの自己実現を叶えていく一方で、労働者は現実を変えられないという無能感に陥って現実を受け入れざるをえない。そういった事態が「資本主義リアリズム」に繋がっているのだと思う。本書を読み進めて行くうちに、資本主義はそれ自身が進化することで新しい体制へと移行するのではないかと考えたが、これはどこかに書かれていたかどうかを覚えていない。人工知能などのシンギュラリティを迎えたとき、体制がどのように変わるのかを考えてみるのも面白いかもしれない。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 またここからは全く関係のない話だが、どのようなものにしろ「分からないものを分からないまま次へ進む」というのは非常に大事であると思う。例えば高校の化学では大学で習うような有機化学量子化学を習わないため、原理や法則はわからなくてもこの条件ではこうなるということを暗記する作業になる。自分の高校時代を思い出せば、アルケンへのハロゲン化水素の付加反応ではより水素が多く結合した炭素原子に水素が結合するというマルコフニコフ則はその最たる例であったと思う。一方で、このような「わからない」は何も知らない人に対して急に反応中間体のカルボカチオンが〜とか言っても寧ろ分からなくなる事の方が多いだろう。こういったときは「よく分からないけど、そうなんだ」と思ってやり過ごせば、そのうち必ずその謎が解ける。何もこの話は勉強だけではなく、小説や漫画のような物語でもそうだと思う。開示された設定の根拠が分からなくとも、それが伏線となってのちに回収される事もあるだろう。特に回収されずとも、物語そのものが面白ければその経験はもはや勝ちである。宇宙空間は空気がないから音が伝播しないはずなのにスター・ウォーズだとなんで聞こえるのかなんていうどうでもいい事でスター・ウォーズを楽しめない人はいないだろう。「俺の宇宙では聞こえるんだ」と監督が言っていたそうだし。この例はちょっと極端だが、本の中でそういった分からないことがでても挫折せずに読み進めて行きたい。今回の読書で改めてそう思った。