考の証

要は健忘録

Death Note : Light up the NEW worldの唯一良かったところ。

 めっちゃネタバレするよ。

 と始めようかと思ったけど、あれだね。ツイッターに投稿しちゃうと初めの文章結構みれるのね。これじゃネタバレ回避のためにブログで書いている意味がない。ので、近況を話しますと、今日だけで15万円ぐらい服や時計に使ってしまいました。こう、大金を気にせず使えるようになったのが大人になった証拠なのかなと思いました。


 昨日のブログに書き忘れていたけど、デスノートの唯一良かったところは弥海砂の最期。

弥海砂 心臓麻痺 午後14時40分 夜神月の腕の中で死ぬ」

 という言葉を見た時に、多分見た人は「ん?」って思うはず。デスノートのルール上、操れるのは死ぬ人間だけであり、その死因に他の人の名前を出してもそれは実現せず、その場合は二人とも心臓麻痺で死ぬ。そしてこのシーンでは、夜神月が死から蘇ると言われていた(そんなわけないけど)。このルールは海砂も知っていて当然で、もし本当に夜神月が復活するのであれば、この書き方は非常に不味い。
 しかし、この時に海砂は死神の目を取引して手に入れおり、夜神月の写真を見ることで月が本当に死んでいることを再確認している。つまり、海砂は月が死んでいて蘇らないと理解しており、だからこそデスノートにこの書き方が出来た。でも、この書き方をしても海砂の望みがノートのルールの面でも、夜神月が蘇ることはないという現実的な面でも、決して叶わないことを海砂は知っているのに、それでもこの死因で死ぬと決めた。このときの海砂のことを考えると、凄くくるものがある。あのラストから10年経った海砂は可愛いから美しいにチェンジしたけれど、それは外面だけでなく内面でも成長していたけれど、それがこの結末を迎えるという、こう、言葉に出来ない良さがある。


 まあ、他の面について言えば、デスノート所持者の青山さくら(だっけ?)が死んで警察にノートが渡った際、初めに素手で触り死神を見た竜崎に、つまり所有権は竜崎にあるのだけれど、そのノートを落としたベポが憑かないというのはルール上あり得ない。また6冊のデスノートがあるはずなのに、本作に出てくる死神はリューク、アーマとベポのみ。そりゃ紫苑に4人も死神が憑いている図というのは非常にシュールなのだけれど、ルール上はそうなるはず。それにアーマが砂になるときにノートまで砂になるのは、7冊目のノートが持ち込まれたから無効化の証とも言えるのだけど、ここはそのまま残ってスペア的存在になるのが筋なのじゃないかとも思う。それにしてもデスノートを6冊移動させるときに死神6人がひょこひょこついていくという図は非常にシュールだけれど、その場で反省会をしているのならそれはそれで面白いので是非映像化していただきたかった。


 そういうわけで、デスノートのルールを守る気のさらさらない脚本を思えば、この弥海砂の死因というのは実はそこまで考えていない偶然の賜物かもしれないけど、とても良いと思いました。

帰ってきたら冬になっていた。

 先日ミュージアムを、今日はデスノートを見てきた。

 ミュージアムはニュースでカエル男の正体を知らされて萎えてしまったが、時間があったので見に行ってみた。
 これは終始気分の悪くなるような映画で、あまり好みではなかった。ただ、原作を読んでから思い返すと、この映画は原作を越えたいい映画であったと思う。カエル男の犯行は、それはそれは見てたら気分の悪くなるようなものであったけど、原作はそこまでの描写ではなかった。一つ一つの犯行にしっかり情熱を注いでいたことがわかる。そしてカエル男の演技の良さ。主人公の小栗旬も中々気迫に満ちた演技で、クライマックスは良かった。
 気持ち悪い、グロいという意味では見る人を選ぶであろうが、これは良き実写化映画の一本だと思う。


 そして今日見たデスノート。これはひどかった。ストーリーは2時間という短い時間に収めようと、上手く凝縮してまとめきれていたとは思う。だが、肝心の中身がない。ほぼ原作のオマージュで終わる。本作での新要素は、デスノートが6冊あるというだけ。役者の演技も癇癪持ちかよっていうぐらい、キレまくるばかりで冷静さのれの字もなかった。脚本なのかもしれないけれど、もっと落ち着いた心理戦を見せて欲しかった。
 この映画に関して言えば、原作という名の親の脛を齧るだけの映画だったと思う。良かったのは年齢を重ね美人になったミサミサだけだった。



 と、しばらくの出張が明けてから暇を持て余している私です。出張に行く前には少し暑い日もあったというのに、帰って来れば息も白い冬に変わっていた。今回の出張は凄まじい連勤であったことを除けば、まあ人道的な範囲の勤務であった。だが作業量が尋常なく増えたこと、異動等もあり初めての出張者が居たこともあり、私には凄まじいストレスがかかってきた。目の前にはこなさなければならない仕事があるというのに、それを自分では扱わず他人に任せなければならなかったこと。そして予定が過ぎてもその仕事が終わらない。そんなことも気にせずに仕事は次々降り注いでくる。
 そんな中思ったことは、やはり人間は容易く変わることができないのだという実感。しばらく鳴りを潜めていた人格が目覚めたような感覚。上昇志向のない、やらなければならないことに対する執着心のない人に対する苛立ち。これは自分の歪んだ性格に起因した、自己肯定を得るための行為をいつの間にか他人にも求め、その行為をしないことが理解できないという理不尽な思考に根付いたものであることは理解している。多分、自分が求めているレベルに達していない人は、それが自分であろうと他人であろうと許せないのだろう。なんて面倒な人間だろうかと、今これを書きながら思っている。

 そして帰ってきた。何もすることがない。急に束縛から解放されても、その時間を持て余してしまう。こんな時、大多数の人は何をしているのだろうかとぼんやり考えていた。そして、みんな友人や恋人とこの暇な時間を過ごして潰しているのかと思い、納得してしまった。不定期に長い出張がある身としては、まともな交友関係を築こうとは思えない。これは言い訳になるんだろうか。元々基盤のある人間が関係を広げるのは楽だが、その基盤を持たない人間であれば、この出張というのは重い枷になる。

 ああ、早くこの呪縛から解放されたいと切に願う11月であった。

「何者」見た。

 洗濯していて寝られないので、先日見た「何者」についてネタバレ前提でつらつら書いていこうかと思う。




 役名を対して覚えていないので、役者名で書いていく。



 まず、二階堂ふみが怖い。その怖さが発揮された後のシーンにでてくる有村架純には本当に癒された。有村架純は大学一年生(?)から就活時までの姿で出てくるが、一年生であろうときの姿は、垢抜けない田舎娘っぽい雰囲気が出ていた。これはメイクさんがすごいのか、ただただ感心した。アイアムアヒーローではあんなに美人だったのに、こう映るとは。


 ・・・結論から言うと、佐藤健が最後にクズとして明かされるのだけれど、それに私は安心した。本作では彼の内面や性格はあまり描写されていない。そのため、受けた印象は「なんだか周りに馴染めていない」「キョロ充」「斜に構えてなにもしない人間」という感じであった。そんな彼だが、最後に匿名のツイッターアカウントで就職活動をするための5人のうち3人(自分と有村架純を除く)を、本人は客観的かつ冷静的に分析していると思っているのだが、馬鹿にしている内容のツイートをしていた。顔には出さず、影で人を馬鹿にしていた彼を見たとき、私はよかったと思った。それまでの彼は演劇の夢を諦め、就職活動も上手くいかない、何者にすらなれないよう描かれていた。これで彼が影で悪口を言っていなかったら、彼はクズにすらなれていない。彼はこの世で何者にすらなれない。誰かの、何かになる権利すら得られていなかった。そんな彼に「クズ」という称号が与えられたことは、この世界の中における佐藤健が得た居場所そのものといっても過言ではないと思った。これが安心できた理由だろう。

 そんな彼だが、就職活動に演劇関連の企業を選ばなかったのが不思議だった。というよりも、演劇サークルで台本や演出を烏丸ギンジと共に担当し、演劇に熱を込めていた彼が、「何者」かであったであろう彼が、徹底して「何者でもない」姿として描かれていたことに疑問を持った。こういうクズの役割というのは、何に対しても本気になれない、もしくは自分を現実で順位づけしたくないがために何かにつけ言い訳をして本気にやらない人間が選ばれるものだろう。これについては特に原作でも描かれていないようだ。
 これは私の推測であるが、就活が上手くいかずに留年した佐藤健が、初めの1年目に受けたのが演劇関連の企業だったのではないだろうか。今までの自分の努力、かけてきた時間といった諸々を懸けて挑んだ就活に、一度彼が負けたのではないだろうか。だからこそ、今でも演劇に対して全力を尽くす烏丸ギンジが無視できなかったのではないだろうか。

 作中で菅田大輝は、内定を得た後に佐藤健に確かこんなことを言っていた。
 「内定って言葉、不思議だよな。それをもらうだけで自分が全肯定された気がする。」
 「足が速いことと一緒で、俺はただ就職活動が上手かっただけなんだよな。」
 「俺、なんで拓人(佐藤健)に内定が出ないのかわからない、嫌味じゃなくて。」
 逆を言えば、内定を取れないということは自分が全否定されたように感じる。自分のしてきたことを認めてもらえなかった。そんな思いが佐藤健の中にあったのなら、就活1年目には「何者」かであった彼は、「何者」になれなくなったのではないか。


眠くなってきたので、続きは後日更新。

始まり

 某社畜アカウントに触発されてブログを開設した。以前から日頃から文章を綴っていきたいと考えていたが、こういうきっかけがないと始める気にすらない。この辺りは怠惰な人間性が現れている。そしてこのブログがいつまで続くかというのも気になるところである。そんなこのブログは単なる日記として自らの生活を、そしてそこで考えたことを綴っていくつもりである。「生の証、考の跡」というタイトルはその意味でつけた。何と読めばいいのか、本人もよく考えずにつけたのでいい案があれば今後変えるつもりである。


 最近は仕事が忙しくなってきた。私が配属された部署は社内でも有名なブラックな部署として名を馳せており、今はその意味を噛み締めるばかりである。仕事をしている人にも目をくれず、容赦なく定時で帰っていた頃がもはや懐かしい。平日は仕事に追われ、家に帰れば食欲と睡眠欲を満たすだけの生活である。そして休日は平日の疲れをなくすという名目のため、部屋にこもってダラダラと過ごすだけの生活である。正直、休日に何をやっているのか記憶があまりない。一体、何のために生きているのかと問われれば、「生きているから。」としか返せない大変残念な生活だと心底思う。大学生のときは部活、大学院生のときは研究に明け暮れていたことを考えれば、社会人のときは仕事をしているのが正解ではある。だが、そんな生活は御免である。つまり、働いてから休日にすることがないのは、これまでの人生を振り返れば当然なのである。

 最近、夢をみた。昔付き合っていた彼女に再会し、昔のように話しながらデートする夢だ。全くもって虚しい夢である。現実に再会したとしても、嫌悪感などよりもまず申し訳なさが前に立ち、昔のように振る舞うなど絶対に無理だろう。そもそも彼女と別れて以来、他人に対して期待せず、自らの心を開かず、表面上は良好な関係を築いてきた私にとって、そのような振る舞いはもはや誰に対しても無理なのである。気付けば、私は最もなりたくないと思った人間になってしまった。全くもって笑えない話である。そしてそんな夢を見たせいだろうか。心から一緒にいたい人と過ごす日々は幸せなのだろうという思いが私の中で生まれる。他の人はみんな、そんな生活をしているのだろうと少し羨ましく思う。だが、それは私がそう願い、行動すれば叶えられる類のものだ。甘いと知っている葡萄に手を伸ばせないでいる私は、手を伸ばさない理由を必死に探している。きっかけがないと嘆きつつ、何も行動せずに済む現状に安堵している。


ここまで書き、自分の文章力や展開力のなさに呆れてしまった。だが、これから少しずつ改善されていくだろうことを祈りつつ、この日記を始める。

タイムパラドクスゴーストライター とは何だったのか 〜総集編〜

 タイパラ記事がやたら増えたので一つの記事から全てを見られるようにまとめました。この記事でまとめているのは私が書いた・まとめたものだけ*1ですので、それ以外をお求めの方はtogetterもしくはgoogleで検索されることをお勧めいたします。

リアルタイム感想

毎週の阿鼻叫喚をtogetterにまとめています。お時間のあるときにどうぞ。
togetter.com

タイムパラドクスゴーストライター とは何だったのか

全ての始まり。タイパラをどう読めばよいのかを1話ずつ振り返った記事です。まずはこちらからどうぞ。
qf4149.hatenablog.com

タイムパラドクスゴーストライター とは何だったのか 〜過去編〜

原作者の過去作からのタイパラを振り返った記事です。タイパラの靄のかかった世界が一気に澄み渡る晴空になるので、ぜひ2作とも読んで欲しいです。
qf4149.hatenablog.com

タイムパラドクスゴーストライター とは何だったのか 〜未来編〜

これまでの記事を総括し、打ち切られなかった世界線でタイパラがどのような展開をしていたのかを書いた記事です。俗に言う幻覚です。
qf4149.hatenablog.com

タイパラ2巻の表紙公開時の反響

タイパラ2巻で知らないキャラが出ていましたが、それを即答したときのTLをまとめたものです。
togetter.com

タイパラ謎本TL

Pixiv事典の話題からタイパラ最大の謎であるジャンプ妖怪おじさんの正体に迫ったTLをまとめたものです。この段階で話すべき話題は尽きました。
togetter.com

タイムパラドクスゴーストライター とは何だったのか 〜真実編〜

もう話すことがなくなったとTLで総意が得られて1ヶ月経ったにもかかわらず、なぜか世界からタイパラが供給されたので書いた最後の記事です。
qf4149.hatenablog.com

*1:流石に他の方々の記事をリンクするのは気が引けました