考の証

要は健忘録

映画「HELLO WORLD」の考察 正書版

 流石に前のブログでは説明がごちゃごちゃしていたので、自分の整理も兼ねてもう一度考察をして正書してみる。

 [前回更新分]
qf4149.hatenablog.com


 理解を優先してラストシーンから考えて行きましょう。一行瑠璃は劇中で堅書直実と同様の手法で堅書直実のALLTAREからのサルベージを行なっていることは精神同調率を示すゲージから示唆されている。またこのラストシーンで個人としてはっきり描かれたのは一行瑠璃と堅書直実だけで、直実は脳死から復活しているためにこの描写からALLTAREからのサルベージを行ったのは瑠璃(もしくは瑠璃が作成したAI?)であることが確定する。

 ここでALLTAREについて振り返ってみると、ALLTAREとは量子記憶装置の名称であり、京都という都市全体で起きた事象の全録(パンフレットより)である。つまり、ALLTAREで再現されたデータ類は基本的に全て起きた事象であることを示している。

 この二つから、堅書直実が十年後の自分、先生と会う前の世界(分かりにくいのでオリジナルと以後呼称)の年表は以下のように考えられる。


【2027年】
 ・堅書直実が一行瑠璃と付き合う
  同年の花火大会にて落雷事故によって一行瑠璃が脳死状態に陥る

【2027〜37年】
 ・堅書直実は京斗大学の千古教授の研究発表(ALLTAREデータを用いた脳死マウスの復活)を聞き、
  ALLTAREを用いた一行瑠璃の脳死状態からの回復を目的として行動を開始する

 ・堅書直実が「クロニクル京都(ALLTAREを用いた都市の全事象の記録プロジェクト)」に参加、
  千古教授の元で研究員として出世し、システム管理者の権限を得る

 ・堅書直実はALLTAREへのダイヴシステムを完成させるが、その実験の最中に脊髄損傷の事故に遭い、左下肢麻痺となる。

【2037年】
 ・堅書直実がALLTAREへダイヴして一行瑠璃のサルベージを実行、一行瑠璃は脳死状態から回復する

 ・このサルベージのALLTAREへのダイヴ、もしくはサルベージ後のALLTAREの欠損データ修復作業など、
  何かしらの原因により堅書直実は脳死状態に陥る

【2037〜??年】
 堅書直実のデスクにある教授宛の手紙を千古教授が発見する(EDのワンシーン、おそらくここにラストシーンとの補完描写があると推定)
 千古教授とそのラボメンバーは堅書直実が一行瑠璃を救う為に行ったことを知る
 これ以降のどこかで一行瑠璃が堅書直実の計画を知り、同様の方法で堅書直実を救うことを決断する

【20??年】
 計画を実現すべく、一行瑠璃が堅書直実をサルベージするためにALLTAREへ三本足のカラスとしてダイヴする
 ダイヴ先は2037年のALLTAREで堅書直実が2027年にダイヴする前の記録時空間、
 もしくは2037年の堅書直実がダイヴした2027年の記録時空間(オリジナルのALLTARE内のALTTARE)のどちらか


 ということが出来事が、ALLTAREのデータ内で堅書直実と先生が会う前に起こったことである。そのため、本作はこのオリジナル世界、ALTTARE内の2037年の世界、ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界という三重の世界構造を理解することが必要不可欠であろう。ちなみに余談だけど、一行瑠璃のダイヴ先がどちらかなのか分からないのは、
①先生はカラスのことを元から知っている口振りであることから、オリジナルの2037年で用意したものと推定されるので、こちらから入った方が良い(気がする)
②ALLTARE内の2027年の堅書直実は先生が伏見稲荷にダイヴするよりも前に赤いオーロラとカラスを目撃していることから、カラスは堅書直実よりも早い段階でダイヴしている
という辺りが矛盾している気がするからである。そもそもオリジナル世界からダイヴしたALLTARE内2037年の世界から更にダイヴしたALLTARE内2027年に直接ダイヴするのは流石に無茶すぎる気がするから迷っているところではある。この辺りは考えてもわからないので放置しておこう。

 さて、一行瑠璃がALLTARE内へ三本足のカラスとしてダイヴしたのを当然のように話しているけれど、これはちゃんと理由がある。【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】にて先生が瑠璃をサルベージして世界が崩壊した後の論理物理干渉野(パンフレットより引用、崩壊した世界に神社だけがあった空間のこと)にて、堅書直実に三本足のカラスが「一行瑠璃を取り戻したいか」と問いかけているシーンがある。それまでに先生はカラスを道具のように扱っていたので、先生自身カラスに意思があると思っていなかった節がある。恐らくはオリジナル世界でも先生は自らALLTARE世界に道具としてカラスを持ち込んでいたと思われるので、このカラスに成り代わっていることが推測される。また【ALLTARE内の2037年の世界】でも三本足のカラスはあの異常事態の中でも堅書直実と一行瑠璃を元の世界へ還すための正解を知っていた。【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】でも【ALLTARE内の2037年の世界】でも異質な存在であるあのカラスはそのさらなる上位世界からやってきたと考えるのが妥当である。モチーフの話をすれば、この三本足のカラスは八咫烏のことを示していると思われるが、八咫烏は導きの神である。最初のシーンでは堅書直実を先生が現れる伏見稲荷へと、論理物理干渉野では堅書直実をALLTARE内の2037年の一行瑠璃の元へと、ALLTARE内の2037年では堅書直実と一行瑠璃を元の世界へとカラスが導いており、八咫烏の導きの神としての性質をこれでもかと見せている。加えて堅書直実の精神状態を同調させるという意味での導きもその中に含まれていると思われる。ALLTAREへのダイヴの際に姿形が変えられることは先生から説明(腕を機械に変えるなど実践もした)があったため、一行瑠璃が三本足のカラスとしてダイヴしたのも矛盾なく説明できる。
 ではなぜ一行瑠璃はオリジナル世界から二回もダイヴしなければならなかったのか。それは脳死状態からの回復には、脳死状態直前の精神状態をALLTARE内で再現してそのデータをサルベージする必要があるからである(劇中での説明あり)。そして脳死となった堅書直実は、2037年のALLTARE内の2027年へのダイヴが原因となってその状態となったからであろう(こっちは推測)。ただし、堅書直実はALLTARE内の2027年のダイヴそのものは成功していたが、その後処理を間違えたために脳死状態となったという仮説の方が有力であろう。これは先生が瑠璃のサルベージの際には脳死状態に陥った落雷事故が起きるまで待っていたこと、堅書直美がオリジナル世界にサルベージされたのは京都駅の階段上で自分と握手して【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】の堅書直実が元の世界へ戻る際に光へと変化したことから推測できる。この辺りの詳細についてはスピンオフアニメの方で説明があるかもしれない。

 ちなみに三本足のカラスは一行瑠璃であるとして説明を続けてきたけど、これ本当は一行瑠璃のアバターではなく、一行瑠璃(とラボメンバー)が作成した人工知能である可能性も捨てきれない。ALLTARE内の2037年の世界にて、同一座標に同一人物が複数存在するということをALLTAREがエラーとして認識して、具体的には一行瑠璃を排除しようとしていた。ちなみに同一世界に同一人物が複数存在することは、【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】にて先生と堅書直実を排除しようとシステムは作動しなかったので問題はないように思えるが、【ALLTARE内の2037年の世界】では一行瑠璃が元の世界へ還った後に先生と堅書直実がエラー対象として認識されていたので、潜在的な危険性はありそう。オリジナル世界にて、堅書直実の回復を喜ぶ人間が結構な数描かれていたので、このサルベージは綿密に計画を立てていたのであろうし、そう考えるとわずかな危険も排除しようと人工知能を使うのも選択肢として十分にありえるかな、と。ただ、人間ではなく人工知能を用いるというのは臨機応変に対応が求められる場においてかなりのリスクもありそうだし、このメンバーはかなり議論したんだろうなぁ。


 そんなこんなで、HELLO WORLDとは堅書直実と先生のW主人公で一行瑠璃を助ける映画と思わせておきながら、実は一行瑠璃が自分を助けてくれた堅書直実を助け出すというストーリーなのでした。しかもオリジナル世界の堅書直美と【ALLTARE内の2037年のALLTARE内の2027年の世界】の堅書直実と一行瑠璃の三人を全て救うという超絶難易度のサルベージを成功させた一行瑠璃は描かれていなかったけど、相当に優秀な人だったんだろうな。

 そしてこの考察が正解だとすると、堅書直実と一行瑠璃って実は言うと一緒の時間を過ごした時間が極端に少なく、どちらかが起きている時にはどちらかは眠っているといういわばずっと片想いの時間が続く訳で、相当切ないストーリーだと思う。最初に堅書直実が一行瑠璃をサルベージした時、堅書直実は独りでほぼ狂気に染まりながら研究を続けていただろうし、一行瑠璃が堅書直実をサルベージする時には仲間がいただろうけど、自分のことをただひたすら十年間一人で救おうとした人のことを考えていただろうし、なんだこのカップル。これから末長く幸せになれよ。


 もはや自分がこの話の主人公を最後の一瞬しか出番のなかった成長した一行瑠璃として認識してるところがあるな。まあまだ色々思うところはあるし、仮説じみた考えもあるけれどこれ以上増やすともっと分からなくなりそうだなので、今回はこれまでにしておきましょう。

【積読日記】逆境を「アイディア」に変える企画術

 今回は久しぶりに本当に積んでた本を読んでみた。本当、積んだ期間が長くてなんで買ったのかきっかけを全く覚えていない。

 本書はひらかたパークの業績V字回復のきっかけとなった広告に携わった方が書かれており、広告をいかに真に効果のあるものとして世に出せるかといった内容となっている。確か、購入したときには書名と中身が面白いという話だけを見て買ってた気がするため、広告が主体の話とは思っていなかったが、内容そのものはそういったクリエイター以外にも役立つものになっているのではないだろうか。

 著者である河西氏は博報堂に勤められているが、入社して7年間は営業として働いており、広告作成を行うようなクリエイターではなかった。初めにで書かれているが、河西氏はその間に博報堂のクリエイティブ職となるために社内の適性試験を2回落第しており、3回目にしてようやく合格したとのことで、それがクリエイティブ職における発想力や企画力、アイディアといったものが先天的ではなく後天的に伸ばすことができるものであると述べている。
 実際、河西氏が本書で解説しているのは「広告を出す目的は何なのか」「その目的を達成するために必要なソリューションは何か」「そのソリューションを提供するための最適な広告形態は何か」という、言ってしまえば仕事のやり方にまで一般化できる内容となっている。広告とはクリエイティブなものである前に、顧客にとって何が目的で何が課題であるのか、そして広告でどう解決していきたいのかを考えることが大事である。ただ「広告として面白い」というのはクリエイターの自己満足そのもので、顧客に貢献できていなければそれは広告としては不合格である。実際、広告として面白く、賞を受賞したものでもその広告が例えば商品購入のような具体的な成果に紐づかないことも多々ある。これは広告を出すことによる結果というものが常に因果関係で結ばれているわけではないことが結果が伴わないことを許容する素地に確かになっているのかもしれない。一方で本書では「広告の最大の目的は売上・利益を増大させること」と定義し、それを達成するために広告をどう活用するのかを考え、得たい結果から逆算してアイディアを捻出することの重要性を述べている。

 この考え方は広告制作だけでなく、より一般的なビジネスの面でも同じことが言えると思う。仕事の目的を明確化せずになあなあで進めたものが成功した試しはほとんどなく、仕事の目的が明確でも手段を最適化しなければ同様の結果を生むだろう。こういった考え方は当たり前でありながら、しっかり管理して仕事を進めていくのは会社の風土や上司との関係、日々の業務量などが原因で難しいものであるとも思う。一方で、この目的と手段、課題といったものを整理する時間をしっかり取り、チームでのコンセンサスを得たうえで仕事を進めることは自身の業務への納得度も増すと思われるため、重要であると最近身に染みている。この本では最後に紹介してきた公式、Tipsのようなものを簡単にまとめたページがあって振り返りも楽にできるため、思いついたときにでも本書を開いてしっかりこの考え方を身に着けていきたいと思う。

【積読日記】B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊

 今回読んだのは紀元前の古代オリエントにおける文明に関する本である。なぜ古代オリエントに関する本を読もうと思ったのかというと、日本含めて世界史などは高校の授業で習っただけであって詳しくないことや、そもそも最初の文明がどのようなものだったのか知らなかったことがある。この本を購入するときはたまたまそういった気分で古代オリエントに関する本で面白そうなものを本屋で探し、色々眺めた結果手に取ったのが本書籍である。

 古代オリエントとは、今でいうエジプトやシリア、イラン、イラクといったアジアとヨーロッパの境目あたりの地域に起こった古代文明のことを指しており、四大文明エジプト文明メソポタミア文明のあたりである。主要な国といえば、言わずとしれたエジプトやバビロニア、それに加えて鉄器や戦車で有名なヒッタイトやミタンニ、ギリシャクレタ島のミノアやミュケナイなどがある。

 この本を手に取った理由としては、書名に「古代グローバル文明の崩壊」とあったのが一番の理由であった。というのも、あまり歴史を勉強してこなかった身としては古代の文明とは現代とは異なり閉じた文明で他の国々と深い交流があるとは思っておらず、古代においてもグローバルな文明があったのかと気になったからである。本書籍はこれら古代オリエントの国々が次々滅んでいった紀元前12世紀で何が起こったのかを考察するため、紀元前15世紀からそれぞれの文明・国の興りや文化、相互の関わりなどから述べられている。
 特に驚いたのは、各文明・国の王が互いを(血縁関係の有無に拘わらず)父・兄弟と呼び合って親交を持っていること、それに加えて金や銅、錫のような金属、象牙や宝石のような宝飾品、そして穀物やワイン、織物のような消耗品の交易を行っていることであった。また、これは陸路だけでなく東地中海の海路においても同様のことが行われていた。それに加えて、当時はもちろん国同士の争いも起こっていたが、敵国を支援している国への物の輸出を禁じるような禁輸措置を行っていることも発掘された粘土板から分かっている。このような複数の国にまたがる交易、また利害関係のよる輸出入の制限ということが3000年以上前にも行われていたという事実には驚いた。

 本書は上記のような古代グローバル文明の説明から入っていくため、それぞれの国王や年代が頭に入っていない素人では流し読みするしかなかったが、それでも大まかな時代の流れというものを理解するには十分すぎる内容となっている。また、なぜ同時期に次々とこのような文明が崩壊してしまったのか、ということについては正直少し歯切れの悪い終わり方とはなってしまったが、既に人類はグローバル文明の崩壊を体験しており、この体験を考古学によって掘り起こすことは私たちの現代の悩みに対しても有効であるかもしれないと感じた。

【積読日記】「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略

 このブログ更新も久々になっている。積読自体は細々と消化したりしていなかったりしている。最近では生活に変化があったのに加え、新聞を読んだりビジネススクールの動画で勉強したりと、まじめなことを始めたりして、あまりこれまでやっていたことができなくなってきたところもある。一方で、やはりインプットしたことはアウトプットしないと身につかないということも身に染みているので、今回久々に読んだ本について感想を書いていこうと思う。

 今回は小泉悠著の「帝国ロシアの地政学 勢力圏で読むユーラシア戦略」を読んだ。今年、まさか21世紀に入って19~20世紀前半のような古い価値観の古い戦争が起こると考えていなかったが、本書はこの戦争の起こる前である2019年にロシアに対して鋭い考察をされていると東野篤子教授が紹介しているのを見て興味を持ち、読んでみた次第である。本書を書かれた小泉悠氏は以前からTwitterでよく見かけてはおり、同じ丸の内OLとして勝手に親近感を覚えてはいたが、ウクライナ戦争に関するテレビ番組ではちゃんとしている人なんだと改めて思った。

 本書ではロシアの「境界」について、ロシアという国家がどのような認識をしているのかという話から始まり、本書が書かれた2019年までロシアが起こしてきた事象を解釈している。今日に至るロシアの行動を理解するには、以前読んだ中東政治学入門*1にも通ずるところが、ロシアという国家のアイデンティティ、そして正統性が重要となっている。ロシアは帝政を打倒した後、ソ連として共産主義の旗本にあらゆる民族、国を包摂する同盟国家として長い時を過ごしてきた。そのソ連が崩壊したとき、残されたロシアは広大な土地とそこに住む多数の民族をまとめ上げるアイデンティティを確立することは困難であったとされている。こういった中、ロシアにとっての貴重なアイデンティティの一つが第二次世界大戦での勝利であり、このナチズムという悪に対する勝利という全人類的な貢献を成したという自負はロシアに暮らす人々を結びつける一定の同朋意識を育む効果を果たしている。だが、外敵の勝利の記憶にアイデンティティを依存しているため、ロシアは常に敵を規定しているともいえる。私たちにとってウクライナにナチズムがあるというのは違和感しかない話だが、こういった前提があると理屈としては受け入れることができる。
 また、本書ではロシアのいう「主権国家」についても述べられている。ロシアのいう主権国家というものは自身の力のみで成り立つ国が持っているものであり、政治・軍事同盟に頼る国家はその同盟相手に対して弱い立場に立たざるを得ないため、完全な意味で主権国家として成り立たない。そういった意味で、ロシアは自身が主権を有する政治・軍事的に強い大国であり、旧ソ連諸国はロシアが一定の影響を及ぼす勢力圏であるという認識を持っている。それぞれの国家が強弱問わずに主権を有しているという西側の考えとは異なっており、これが私たちにとってロシアの行動を理解しづらいものとしている。こうした勢力圏があると認識しているロシアにとって、同じスラブ民族であるウクライナベラルーシは他諸国と比べて特別な存在であり、この二ヶ国はロシアの民としてロシアに留めておく必要があると考えている。時折、ニュースでロシアがウクライナの主権を認めていないような発言に驚かされることが度々あったが、本書を読んだことでその理由を納得はしていないがある程度理解できたと思う。
 この他、本書ではこのロシアの主権に関する考え方や勢力圏というロシア独自の認識などを踏まえた上で、ロシアの東西南北の問題について触れている。ウクライナ戦争前後であらゆる国際秩序が変化している今、その中心となっているロシアを理解する上で役立つ一冊である。


 そしてここからは雑感となるが、こういった国家としてのアイデンティティ、正統性というものはほぼ単一民族で陸続きの国境を持たない日本人としては中々考えに至らない部分ではないかと思う。この感覚は以前読んだ中東政治学入門を読んだときも同様に抱いたが、もし戦前に国の象徴として祀り上げられた天皇が太平洋戦争後にGHQによって失われていたら、日本も同様のアイデンティティの構築に苦しむことになっていたのだろう。国家としてのアイデンティティの確立は他国から与えられるものではないし、例え与えられたとしても長続きはしないだろう。アイデンティティや正統性を確立できたとしても、その後国として経済成長できなければ(国民が富まなければ)その体制が長続きしないことは容易に想像できる。また、つい昨年まではグローバリゼーションによって経済的に繋がることが平和を実現する方法であると言われていたが、今年ではそういった建前を無視した国家に私たちは成す術がないというのが分かってしまった。価値観の異なる国でも共に生きていけるという幻想がなくなりつつある今、それでも共に生きていく道を探すのか、どちらかが生き残るまで戦う道を進んでしまうのかを選択しなければならないのだろう。日本、より小さい組織で言えば企業においてダイバーシティインクルージョンを進めていく中、多様性を認めない人間を認めるのかという問題はあまり議論の俎上には上がらないが、こういった身近な議論においても答えを出せないのであれば解決策など出てこないのだろうと少し気が重くなってしまった。

【積読日記】予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ

 積んでない定期。


 本著は日立製作所半導体事業の研究を行なっていた著者がこの20年近く行ってきた幸せに関する研究をまとめた書籍である。著者がなぜ畑違いとも言える研究を行おうとしたのか。それは自身の関わっていた事業がなくなった経験を二度としないため、より社会が求めるものを追求していた結果、これから先無くならないものが人間にとっての幸せであると考えたからだそうだ。
 この幸せというものについて、これまで心理学では質問表の記入による研究がメインであったが、著者はこれまでの経験をもとにウェアラブルバイスによる心拍数や運動量、さらに赤外線センサーを用いた会話するときの相手やそのときの身体の動き方といったデータを測定し、これと質問表による心理学的なデータを突き合わせることで幸せを定量化している。この幸せとは、人間の感じる感情のようなものであるが、それは生化学的な反応に落とし込めるということである。実際に幸せを感じている人は他人との会話中において上半身の動きが多い、つまりノンバーバルコミュニケーションをよく取る傾向にあるそうだ。思い返してみれば、パワハラ上司に話しかけに行く時には蛇に睨まれた蛙のように体は動かないことが多く、気楽に話せる友人であれば身振り手振りを挟んで会話するということを思えば、この結果というのは納得がいく。また、会話する時間や相手に着目すると、企業のような組織では5-10分程度の短い会話が多く発生しているといったこと、また関係性が上司→部下という直接的な上下のつながりだけではなく、他の人ともつながりがある方がより幸せな企業であるということが言える。これもまた、実際に働いている身としてはわかりやすいものだと思う。このように、幸せというのは人の行動に表れており、それを測定・解析することによって人だけではなく組織そのものの幸せというものが測定できるそうだ。


 そして、この組織の幸せというのはその生産性にも影響を与えている。より幸せな人が多い組織では困難なことにも立ち向かう環境が整っていると言え、幸せではない組織と比べて売上や利益の成長率も良いことがわかった。これは、ちょっと嫌なことや面倒なことを始める際、まずは気晴らしをすることもあると思うが、幸せな人というのはその気晴らしの時間というものがなく、困難なことにもすぐに立ち向かっていけるために生産性が高くなっていると言えるそうだ。つまり、人や組織が幸せであるならば、その環境はより成長性が高いということを示している。話は変わるが、これまでの生産性向上というのは工場での効率化してより安価により大量に良いものを生産するということであったが、これからの社会ではそういった物の生産性ではなく、知的労働の生産性を引き上げる必要があると言われている。この知的労働の生産性は工場での効率化というものをそっくりそのまま当てはめることができない。それは、未来というものは基本的に予測ができないものであり、過去のデータや知見というものが基本的に役に立たず、それらに立脚するルールや規格というものも足枷になってしまうからだ。そういった意味で、今後の企業において生産性を上げるためには、この人や組織の幸せを引き上げていくことが必要となってくると著者は述べている。


 実は言うとこの本を書いた人のセミナーを以前聞いたことがあり、それで興味を持ってこの本を手に取った。元々、日立製作所出身の人が幸せに関する研究をしているというのはどこかで小耳に挟んでおり、たまたま機会があったのでセミナーに参加したところ、とても面白い話が聞けたと思いつつ、1時間の講演では足りないと感じていたところ、この書籍が紹介されていた。幸せの研究というと少し宗教じみた感じがするというのが正直なところであったが、データに基づいていろいろ紹介されると納得しまいがちなのは理系の性である(元の論文を読んでいないので、そういった意味では結果しか見ていないのだが)。ただ、紹介されている結果というのは普段の日常を振り返った時にも違和感のないものであり、そういった暗黙知のようなものを可視化するという意味合いでとても意義深いものだと感じた。また、「幸せは状態ではなく行動である」ということも述べられており、私たちは自らの考え方や行動を変えることによって幸せを感じることができると言われている。これは怪しい話に聞こえるかもしれないが、なぜその考え方や行動によって幸せが導かれるのかというデータと結果について理解すれば科学として受け入れられていくだろうと思う。本著では最近の上から発せられる言葉の違和感、というよりモヤモヤを解消するきっかけとなり、非常に良い読書体験ができたと思う。上の人も同じ考えで言葉を発しているものと願いたいが、それはあまり期待しないでおこうと思う。

【映画】キングスマン ファースト・エージェント

 映画はこれまでも時折見ていたが、久し振りにブログ更新という形で感想を書こうという気になった。

 キングスマンは1作目、2作目ともに映画館で見ていた。1作目はその不謹慎さからB級映画臭のしている一方でアクションシーンが素晴らしく、教会でのコリン・ファース演じるガラハッドと凶暴化した市民の戦闘シーンなど圧巻であった。2作目は個人的には微妙な要素が強く、1作目の雰囲気を引きつつもストーリーもジョークも正直好みではなかった。

 そういった訳で、3作目にあたるファースト・エージェントはあまり期待せず見に行った。いつものごとく前情報0で見に行ったのでキングスマン設立前の話であるということ程度しか知らず、上映開始ともに20世紀初頭が舞台となっていることを知ったくらいである。

 さて、本作は前述のごとくアーサー王と円卓の騎士を自称する諜報組織であるキングスマンの設立を描いたものであるが、キングスマンらしいシーンというものは尺の半分程度であった。では、残り半分の尺は何かというと戦争映画である。本作の時代は第一次世界大戦に突入した時代であり、物語はフェルディナント大公の暗殺(サラエボ事件)から始まっている。コンラッドは軍入隊を志願して一兵卒として国のために戦うことを望んでいる一方で、父親であるオーランド公爵はそれを認めていない。第一次世界大戦は人類初の総力戦であり、それはこれまでの戦争とは大きく異なっていた。兵士は誇りなどなく無数に消費される銃弾のような資源であり、そこに個人は存在していない。だからこそオーランド公爵はこの戦争に誇りなどはなく、ただ数字として消費される兵士となることは国の為に戦うことなどではなくただ死ぬだけなのだとコンラッドを諭す。実際、合図と共に塹壕から飛び出して敵へ向かう英国兵が敵対するドイツ兵の機関銃で何もできずに全員殺されるシーンがあり、まさにその数字として消費されていく姿が描かれている。また、キッチナー将軍が途方もない死者数が書かれた電報を読むシーンがあることからもオーランド公爵の言葉が繰り返し描かれている。
 しかし、最終的(映画ではまだ中間辺りだが)にはコンラッドは19歳(入隊できる年齢)になって入隊、ロンドンへ戻れる機会も替え玉でやり過ごして前線へ向かう。ここでコンラッドはドイツへ潜入していた英国のスパイを自陣に連れ帰り、戦争終結の鍵となる情報を齎すことになるのだが、不幸なことにこの前線で亡くなってしまう。
 この一連のシーンはかなり暗く重いものとなっている。まるで別の映画を見ているかのような錯覚すら覚え、キングスマンの不謹慎さなどは全くなかった。また、私は主人公であると思っていたコンラッドがまさかここで戦死するというまさかの展開に驚いてしまった。「コンラッドキングスマンを作るんじゃないんだ!?」と思いつつ「今映画始まって何分経った?残り何分?」とか時間から作劇を予想しようという悪い癖も働いてしまうほどだった(なお、腕時計をしていなかったため分からなかった模様)。
 ただ、このコンラッドの物語というのはそれだけを抜き出しても非常によくできたものであったと思う。戦争の暗さ、兵士の命の軽さ、大戦の異常さ、その中でも人間性を失わずに生きようとした人、そういったものをうまく描けていた。また、本作のメッセージとして反戦が挙げられると思うが、このコンラッドの物語は、平和を願いその平和を勝ち取る為に戦うというオーランド公爵の決意とキングスマンの設立経緯という物語の根幹へと繋がっていくため、そのメッセージ性も浮かずにしっかり溶け込んでいたと感じた。

 これまで書いた内容を見ると、今回の映画はかなりエンタメ性が控えめと思われるかもしれないが、他のところではよく表れているのでこれまでのキングスマンが好きな人もしっかり満足できるものになっていると思う。この大戦には裏から英国を滅ぼそうとする組織がいるのだが、その組織にはグレゴリー・ラスプーチンウラジーミル・レーニンマタ・ハリ、ヘリック・ハン・ヤヌッセンなどが所属しており、史実を知る人からしたら仰天するようなメンツがそろっている。しかも、結局この組織は壊滅はせず一部は生き残っているのだが、ラストにはヘリック・ハン・ヤヌッセンがウラジーミル・レーニンに対してアドルフ・ヒトラーを会わせている。この無茶苦茶さはキングスマン特有のものといえるだろう。
 また、戦闘シーンでもキングスマンらしさが表れている。ラスプーチンとの戦闘シーンではただの白兵戦ではなくラスプーチンが踊りながらオーランド公爵やコンラッド、ショーラをそれぞれ撃破していくというのは思わず笑ってしまった。また、ラストバトルのオーランド公爵と敵組織の首魁との戦闘はまさにキングスマンらしい迫力ある素晴らしい戦闘シーンであった。それに加え、オーランド公爵が使う小道具たちは後のキングスマンの特殊装備につながっているという要素もあり、過去作を見ているファンにとってはニヤリとするような要素もある。

 久しぶりに色々書こうとしたため、取り留めのない感じになってしまった。またどう終わるべきか、どう締めるべきかを全然覚えておらず悩んでいる。まとめるとファースト・エージェントは過去作を見た人でも面白い一方、見たことない人でも十二分に楽しめる作品であったということで、今回はここで終わりたい。

【積読日記】インターネットは言葉をどう変えたのか デジタル時代の<言葉>の地図

 本著は去年の9月25日に翻訳版が日本で発売されており、たまたま発売前にTwitterで宣伝ツイートを見たのをきっかけにAmazonで発注をしたものである。忘れた頃に「届くで〜」とAmazonからのメールを受け取り、一体何が届くのかわからないまま受け取った。そこから読むまで2ヶ月、途中で読むのをやめて寝かしたのが1ヶ月半となっており、家の歴代の積読に比べれば比較的早いペースで読んだものではあるが、一般的には積読と言って差し支えないのではないだろうか。


 さて、そんな流れで読んだものであるが、内容は英語話者で(確か)カナダに在住している言語学者がインターネットにおける言語学研究の変遷をまとめたものである。本著では現代は人が最も文章を書く時代と述べられている。これは確かになと思ったもので、昔文章を書くなんてことは基本的に日記や手紙などの類でしかなく、一般人の書いた文章が公衆の目に留まることなどほぼなかっただろう。それに対して、現代では電子メールやチャット、Twitterを初めとしたSNSにどんな人でも文章を書いている。例えばTwitterであれば、1ツイート140字としたときに自分のツイート数を見てちょっとげんなりした気分になった人もいるのではないだろうか。また、そういった背景から現代人の書く文章はインターネット以前の文章とは性格が異なっており、いわば口語的な特徴を有していると言える。なぜなら、インターネット以前の文章は書籍のような文語で十分であった一方、そういった形式の言葉はイントネーションやジェスチャーなどの情報が存在していない。インターネット以降の文章には少なからずコミュニケーションツールとしての役割が期待されている一方、文章だけでのコミュニケーションというのは私たちにとって文字通り両腕をもがれたような制限を課されている。このような制限(他にも理由はあるが)による書き言葉が変化という点に着目、解説したのが本著となっている。

 本著では英語圏、主に北アメリカにおけるインターネットと言葉に関係する内容となっているが、その内容は日本語を話す私にとっても理解できるものが多かった。例えば、英語での(笑)を意味するlol(laughing out loud)は当初は単純に書いている人が笑ったことを意味しているだけであったが、時間が経つにつれてlolは皮肉や冷笑といった別の意味も含むようになったと言われている。これは日本における(笑)と同じような変化を辿っている。勿論、発音に似せるように単語のスペリングを変えるといった英語特有の変化というものもあるが、主に感情を伝える為に発生したスラングについてはおおよそ日本語と同じような変化が起こっていたと思う。私たちは普段話す際、言葉通りの意図を伝えるときと言外の意図を伝えるときがある。そして往々にして大なり小なり言外の意図というものは会話をしていれば発生しているものであり、それを言葉だけで伝えるというのは難しい、というより小っ恥ずかしさが出てくる。例えば、皮肉を言った時に相手にその皮肉が伝わらなかった時に「それは〜」と解説するのは何となく間抜けな感じがして放置してまうこともあるだろう。そういった言葉には表さない意図というものが、いわゆるネットスラングとして集団の共通認識の元に広がっている。言ってしまえば、私たちの話している言葉、口語を如何に意味を削ぎ落とさずに書き言葉に落とし込むかという試行錯誤の場としてインターネットが与えられたとも言えるのだろう。かつて一般人が話していた口語や単語の発音というものは書物に残ることは少ないことから失われてきたが、現代においてはその時代における口語的な遠隔表現や実際の発音というものがインターネットを介して保存されているという意味では、これからの言語学者の仕事が増えたことに間違いはないだろう。

 また、私はこれまで英語といえば教科書や論文、ニュースといったいわゆる文語でしか触れてきていなかったため、Youtube欄の海外コメントがどう見ても英語なのに英語ではないように思えることが多々あったが、本著を読むことであれはやはり英語だったのかと納得することができた。納得したとは言っても彼らが何を書いているのかさっぱりわからないのは変わってはいないが、やはり英語も文法ルールを破ったり、言葉を改変したりできる生きた言語なのだなと実感でき、英語に対する認識を改める機会になり良かったと思っている。

【積読日記】中東政治入門

 本著は買ってからすぐに読み終わった一方、読み終わってからこの感想を書くまで1ヶ月以上掛かっている。積読とは一体何であったのか……。

 さて、内容に入る前にまずは「中東政治入門」を読もうと思った切っ掛けから話したいと思う。ちょうど夏頃にアメリカがアフガニスタンから撤退するニュースが流れているころにTwitterで「カイロ大学」の感想を見て面白そうだったのでこの本をKindleで購入、読んでいた。

 その中身というのも、中東問題を解決したいという熱意を持った著者がどのようにカイロ大学に入学したのか、また入学してからどのような大学生活を送ったのか、そしてカイロ大学とはどういう大学であったのか、などの内容がユーモラスに描かれていた。私は多分生きていけない世界であったと思う。この本の一つのテーマがカイロ大学の精神であるが、それはざっくり言うと「エジプト人がどのようなアイデンティティを持つべきか」というものであった。エジプトはオスマン帝国からの独立、その後のイギリスへの従属を経ており、自分達が何者であるかという規範が揺らいでいた。そのために自身のアイデンティティを問い直すというのは非常に重要な題目であった。そしてカイロ大学で行われたその議論の結果生まれた思想信条は中東諸国へ広がっていったと述べられている。


 この本を読み、中東についてもう少し踏み込んで学びたいと思った私は本屋へ行き、中東関連の書籍が置いてある本棚で1時間程度何を買うべきか迷った。いろいろな本を手に取り中身を読んでも社会学政治学を学んだことのない素人の私にとって難しく、結局何も買えずに帰ってしまった。そうして家に着いた私はAmazonで中東に関する書籍を眺めていると、丁度よさそうな本を見つけた。それが今回感想を書いている「中東政治入門」だ。

 本著は報道などで知る中東での出来事がなぜ起こるのか、その原因について国家、独裁、紛争、石油、宗教といった5つの観点を地域研究と社会科学を組み合わせて紐解いている。過去、中東は欧米にとって自分達の理論が通じない「例外」として扱われがちであった。その理由として宗教のイスラム教が挙げられているが、本著では中東は決して政治学の例外などではなく、世界各地で起こる事象は中東でも起こる一方、中東で起こる事象は世界各地でも起こるという普遍さがあることを述べている。
 本著で重要で何度も登場するのが「国の正統性」である。そもそも中東という呼び名は欧州からの呼称であり、彼ら自身がそう自称していたわけではない。それでは中東諸国とは何を指すのかといった場合、それは定義にもよるが、大体は元々オスマン帝国が支配していた領地に建国された国々を指すことが多い。そして、この国々はオスマン帝国が崩壊した際に欧州に植民地化された人工性の強い国々でもある。そのため、その国々の支配者は自身が国を支配するための正統性を作り出す必要があり、それが権威主義体制へと繋がっている。こういった過去の歴史を踏まえ、本著ではそれぞれの観点を紐解き、なぜ中東が今の政治体制となっており、そしてなぜ紛争が起こっているのかを分かりやすく解説している。近年の出来事で言えば「アラブの春」の民主化運動がなぜ起こったのか、各国での結末がなぜ違っていたのか、そしてその運動がなぜ他の国々に波及していなかったのかについて解説されており、中東で起こっていることを理解すると同時にこの問題が根深く、解決が非常に難しいことが理解できる。また、中東諸国の独裁者がなぜ社会主義体制を敷いたのかについても解説されており、ソ連があった時代をほぼ知らない私にとっては東西冷戦がここにも繋がってくるのかと正直驚いたところもある。


 本著を読むことで、私の中での中東のイメージも大きく変化した。読むまでは漠然としたイスラム教のイメージだけが浮かび、報道などを見ても情報として飲み込むだけで咀嚼などできず、どこか私たちとは異なる世界であると正直感じていたところがあった。その一方、読んでからはこれまであった偏見などに左右されず、中東も同じ価値観で動く世界で有り、そこで起こることを少し理解できるようになったと感じている。本著は後書きにもある通り、中東政治の研究の入門書として書かれていることから素人が手に取っても理解しやすく非常に学ぶものが多い一冊であると思う。ただ、私が理解できたのは本著を読む前にカイロ大学を読んで中東やイスラムに対して漠然とした理解ができていたからかもしれないので、興味を持った方はまずはカイロ大学を読んでから本著を読んでいただくと「あ、カイロ大学で見たところだ!」という進研ゼミの気分を味わいながら楽しんで読むことができると思うのでオススメする。