考の証

要は健忘録

外からの眺め

  つい先日、アカデミック主催のセミナーへ参加した。費用はすべて会社持ちということで、仕事へのモチベーションの低かった私は意識高い高いをするために参加申し込みをしていた。そのセミナーでは今まで深く勉強してこなかった内容について講演があり、とても興味深く聞く事ができた。だが、ひとつ残念に思う事があった。

 

  最後にとある著名な先生による講演があった。それは研究というよりかは、その学問の近代史やどのように文化と関わってきたかという内容であり、これもまた興味深い内容であった。しかし、講演後の質問の際、昔からの知り合いの先生方による雑談が始まった。この時の雰囲気を私はあまり好きになれなかった。まるで内輪の内輪による内輪のための講演のように思えてしまったのだ。この内向的な空間には、私のような企業に属する人間、とくに若く人脈のないような人間には入っていけない空間であった。こうしてみんな衰退していくのだろうと漠然と考えてしまった。

  よく若い力が足りないだとか、若者が必要とされていることがあるが、もしこのような空間を築かれていて、かつ若手が欲しい方がいらっしゃったら是非やめましょう。その代わり、よりビジネスライクにいきましょう。仲の良い方と話したい気持ちを抑えるだけでも、その空間は新参者にとって優しい空気になるのではないでしょうか。自分たちの領域を築くのもいいですが、それは見えないところでやっていただけないでしょうか。まあ、私が参加したセミナーでは若手を求めていないのかもしれませんが…。

 

  自分の所属していたグループ。そこから去り、しばらく経ってからそのグループを見ると異様な光景だと思う事はよくある。外から見て判断するのは簡単だが、それを中から気付くのはとても難しい。見聞を広げ、少しでも考え方の幅を広げることが気付くための唯一の対抗手段だと私は思う。斜に構えてると言われるかもしれないが、私にはそれぐらいが丁度いい。

続「万引き家族」

  色々思う事がまた新しく出てきたので筆を取る。あらすじとは言えない物語のネタバレもあるので、見たくない人は戻ってね。

 

  万引き家族は万引きもテーマではあるが、家族もテーマであると思う。万引き家族では虐待されていた子を保護(ただしくは誘拐)する。その後、元の家庭に戻るか尋ねるとゆりは今の家が良いと選ぶ。その後、母親の信子は「選んだ方が良い、そっちの方が絆が強い気がする」といったことを言う。まあそのときの話し相手の祖母である演技が良いんだ。良いシーンには祖母が常にいたというのは個人的な主観であるが、やっぱり樹木希林は偉大である。

  そんな家族も離散するのだが、そのとき出てくる刑事役(高良健吾は良い役だったけど、今話しているのは池脇千鶴の方)が非常にイラッとくるような事ばかり言うのである。例えば万引きをして捕まり、足の折れた息子の祥太を置いて家族は家から逃げようとするが、そのことについて刑事は祥太に対して

  「本当の家族ならそんなことしないでしょう?」

とか言ってくるのである。実は万引き家族は全員血が繋がっていないのだが、息子の祥太は記憶もない幼い頃に車上荒らしにきた(と示唆されている)父親の治がパチ屋の車の中から連れ出したのである。そういう捕まる前までの万引き家族を見てきた私たちにとっては、

  「本当の家族でも娘を虐待するし、パチ屋の車に放置するんだからそこは関係ないだろ」

と思うのである。さらに言えば私は

  「うるせぇ物事を最初から決め付け、何も知ろうとしない外野が正論ぶってんじゃねぇ」

とか思っていた。

  そんな風に思っていたが、あの刑事は現実でいう私たちのことを指しているんだろうことに気づくとあの役の意味にも納得できる。おそらく、わざと煽るようにしたんだろうと思う。何も知らない、知ろうとしない外野が自分の価値を絶対として正論を押し付ける。ネットであれば、どこでもいつでも見れそうな話である。前のブログでも書いたが、そこには実際に生きる人間がいるにもかかわらず、表面的な事実だけをなぞって断罪することは正しいことなのか。このストーリーでこの役があったからこそ、私はそう思ったんだと気付いた。

『万引き家族』見ました。

 久しぶりに映画を見た感想をブログに書く。もはや感想と言えるか怪しくなってしまったが、明日から仕事なのに寝ずにウンウン考えてしまった。寝ないといけないし、もういっかと諦めの境地で投稿する。

 先日、カンヌ映画祭パルム・ドール賞を受賞した万引き家族が先行上映するということをネットで目にした。話題となっていた上、普段はこの前見たランペイジのような娯楽作品ばかりを見る自分が気になっていた作品だったので今日友人を誘って映画館へ赴いた。感想で間違ったことを書きたくないので、キーボードを叩く前に色々調べようとしたが、思ったことを書くのに間違ったもクソもないかと思い直してそのまま書いてしまえというのがいまの心境である。

 あらすじ等は省略してしまおう。そこは絶対的に作品情報の方が正しい。

 この作品を、万引き家族を見て私が思ったことは、言葉を汚くするがいかにクズであったとしても、彼らもまた私たちと同じ血肉の通う人間であるのだということである。映画では、万引きをしつつ幸せそうに暮らす家族が描かれている。生活そのものは全く親近感も何も湧かなかったが、彼らの何気ない会話やふとした一言というのは、本当に私たちの日常とさほど変わりがないと思わせる。そういう描写があったからこそ、彼らも私たちと同じ幸せに生きたいと願う同じ人間であると感じやすいのだろう。
 物語が進み、最後には幸せに暮らした家族は離散し、誰一人として共に暮らしていない。それを万引きなんかしてるからだと断罪してしまうのは簡単なのだが、では実際彼らはどういう風に生きていゆけば幸せになれたんだろうか。たとえ、犯罪をしていたとしても、嘘を重ねていたとしても、確かに彼らは幸せに家族として生きていた。きっと、普通の手段では彼らは幸せに生きていくことができなかったんだろう。どうやって生きていけば幸せになれたのか、しばらくは答えのない問いにモヤモヤとした日々が続きそうだ。

 と、そんなことを考えているのだが、そんなことはおいといて、映画としての話をしたい。この映画、本当に日常パートの描き方がうまい。すでに書いたが、何気ない会話が本当に何気なく行われており、スクリーンに写っている物語は現実にあるものではないかと思わせてくれる。夕食でみんなで鍋をつつきながら世間話をしているところ、家族の愚痴をいっていたときに当人が帰ってきたので慌ててやめるところ、パート同士で話をしている時の何気ない冗談を話しているところ。どんなパートをとっても本当にありそうな日常だと思わせる。果たして、彼らは演技をしているのか、本当にそういう風に生きているんじゃないかと思う。そういったことを思わせるのは演技だけでなく設定のもあるのだろう。息子の祥太は襖を寝室がわりにしているのだが(ドラえもんは上段に寝ているが、彼は下段だ)、そこではライトのついたヘルメットをかぶったり、自分の宝物(劇中では母親がクリーニング屋のパート中に客のスラックスから撮ったヘアピンが新しく加わる)を大事に並べたりするのだが、本当に小学生の男の子がしそうなことばかりである。さらに彼は空き地の捨てられた車を秘密基地にしていたり、本当に色々詰め込まれていている。また、この映画にはほとんどBGMがついておらず、BGMが流れるのは場面が変わったりするときなのだが、その回数はとても少ない。なのに、目も耳も飽きずに映画を見ていて、BGMが流れたときに「そう言えば今までなかったなぁ」なんて思い出したりするのだ。あまり上手く説明できていない気もするが、そういった丁寧に作られた日常パートがあるからこそ、この映画のメッセージが伝わってくる気がする。後、個人的にやっぱり樹木希林さんが好きだなだとか、本当にリリー・フランキーはしょうもないダメ親父役が多いとか、息子役の城桧吏は将来イケメンになるだろうなとか思った。あと松岡茉優は胸でかかった。劇中でリリーが言っていたけど、男はみんなおっぱいが好きだからしょうがないね。


 ここから先は何回も文章を書いては消し、書いては消しを繰り返したが、なぜクズでも人間であると思ったかを書こうとしてもどうしても映画で完結できないのは、私が初めからそういう思想を持っていたからだろうか。そういう思想を持っていたからこそ、この映画を見ていい映画だと思ったのだろうか。もう面倒だから思ったままここからは文章にしてしまおうということでもう消さずに取り止めのない話となりました。

 家族を万引きといった悪事をさせながらも、幸せに生きて生き、最後には離散する。その中には人の弱さが描かれている。誰もが悪くて、誰もが悪くないのだと思う。私たちが彼らを悪人であると断罪するのは簡単なのだが、ではどうしたらよかったのかという問いに答えられる人は少ないだろう。というか、一人もいないのではないだろうか。

 人は簡単に人を断罪する。ネットやテレビで垂れ流されるニュースを見てはこの人はこうだあの人はどうだと批評する。ネットやテレビの情報なんて一面でしかない上に真実であるかどうか私たちは知らない。しかも趣味の悪いことにテレビなんて実像に迫るためという言い訳を使って卒業アルバムだとかのプライベートを容易に暴き出してエンターテイメントとして消費する。そこに自分と同じ血肉通った人間がいるなんて思ってもいない。事件の当事者のことなんてこれっぽっちも考えてなどいない。そしてたった一つの事件から都合の良い事実だけを抜き出して世の中の批評に使ったりする人もいるのだから、世の中には大変な仕事もあるものだと感心してしまう。この映画でも万引き家族がテレビで報道されるシーンが少しだけあるのだが、報道の裏にはそれぞれの人のストーリーが、私たちと変わらない生活があるのだということを教えてくれている・・・のかもしれない。

 人はどんな人でも生きていくことが認められている。このどんな人という言葉に疑問がある人には聞きたい。
「その線引きは公正に決められたものか、そしてその線引きは不変なものか、最後に、それを思うのは自分が生きていくことが認められているからではないか。」
まず、線引きが公正かどうかは決めるのが人間であるがゆえに主観が入る。決めた当初は正しいことでも後から振り返れば間違っていたことなど、歴史を知っていればごまんと出てくる。ロボトミー手術なんてまさにその一例と言えるだろう。そして線引きが不変であるかは間違いなく不変などではない。派遣労働法が専門的な仕事から一般的な仕事にまで広がっているのは線引きが変わってしまったと言えるだろう。最後に自分が認められているというのは、絶対的なものではない。いつなぜといった具体的な話はできないが、線がある以上越える可能性はあり、そして線そのものが自分を越える可能性があることを失念してはいないだろうか。そういったことを常日頃から思っているせいか、私はこの万引き家族の物語を、悪事を働いていたのだから当然の結末だなどという簡単な結論には至れないのである。そしてどうしたらよかったのだろうと悩んでしまう。基本的に、理想とは実現しないものだろう。その理想に近づくことはできる。現実を直視し、どうすればよくなるのだろうかという思考実験は無駄ではないと私は信じたい。

【追記】
次の日、起きると新しい事に気付いたのでここまで読んだ人は是非次のエントリも見てほしい。
http://qf4149.hatenablog.com/entry/2018/06/04/081519

諦めること

  TwitterのTLにこんな記事が出ていた。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55873

  ルイ53世が一発芸人たちを取材した本を出したらしい。中々キツイところに行くなぁと思ったが、読んでみたいとも思う。そんな本を出した彼との対談が本記事であるが、その中には「諦めるなかで、残った道がある。それこそが進む道だと思いながら。」とあった。自分がルイ53世と同じ歳になったときには同じことを思うのだろうかと考えてしまうが、そのときはそれでいいのだろう。今はまだ諦めなくてもいいのだと信じ、何かしらの行動をしていこう。とりあえず、スプラトゥーンは止めようかな。

 

  平成最後の5月が終わり、最後の6月が始まる。最後の5月で私は化粧品のルールを初めて知った。曰く、効果効能があるのは医薬部外品となるからいけない、動物実験を行った物質は使用してはいけないなどである。前者は形骸化しているようで、その辺りは厚労省規制緩和を行っているらしい。後者は美容という生命に直結しないものに生命を使用しないという倫理上の問題であるらしい。しかしながら、動物実験は行えないのなら安全性はどのように担保するのかと言えば細胞実験でみるとのこと。はて、動物は生命としてカウントされるが細胞は生命としてカウントされないのかと私はふと疑問に思う。

  生命とは何か。定義を調べようと思ったが、やはりこの辺りは哲学的問題を孕んでいることに加え、バイオテクノロジーが破竹の勢いで成長している昨今において容易に定義できるものではないらしい。上記の話に戻れば、細胞も間違いなく生きているのだ。外部環境に応答して反応を示し、細胞分裂による自己増殖能を持ち、何よりDNAという記録の箱舟を持つ。アメーバのような単細胞生物みたいなものだ。動物愛護の観点から見れば問題ないだろうが、倫理的に問題はないのだろうか。この線引きはどういう根拠を持つのだろうか。

 

  やはり体調が悪いときは思考も悪い方向に行くようで、先週はひどい様を見せていたと思うが、どうにか体調も回復したようで思考もましになってきた、と思う。

  自分がどうしたいか、どうすべきか、どう生きるか。ゆっくり考えて生きたい。

ご機嫌斜めの治し方って?

  先日書いた日記では星を頂けました。アクセスが若干伸びていたのはきっと政治について少し書いていたからだろうか。それで反応が貰えるのであれば、書いてしまう気持ちは理解できる。世の中よくわかっていないのにドヤ顔で政治について語る人が消えない訳はこれだろうか。

 

  先週の金曜日はプレミアムフライデーであり、帰るときにTOHOシネマの映画割引があることを知ってランペイジを見に行った。初めてプレミアムフライデーらしいことをしたが、この観た映画は最高だった。キングコングに求めていたすべてが詰まっていた。ゴリラと狼とワニが都会でドッタンバッタン大騒ぎ。ストーリーや演出はB級と言われるかもしれないが、個人的にはこれほどの好物はない。悪役の死に方は最高であった。

  そんな良い機嫌であったが、ご飯を食べた後に前の部署の後輩から電話があった。そういえば懇親会があると言っていたなと思いつつ出ると、今から二次会にこないかと言う無茶な話であった。断ろうとしたところ、同期に電話が変わったみたいだが、死ねとしか聞こえてこなかった。あぁ、こんな残念なやつだったなぁと思いながら電話を切り、面倒なのでそのまま電源を落としてしまった。まったくギャグもユーモアもなく、ただの悪口を俺面白いやろみたいな空気を出して話してしまう本当に中学生みたいな大人で、とりあえずこいつとは金輪際関わることがないように祈っている。

食券は偉大である

  今日は仕事終わりに駅近くにあるラーメン屋に行ってみた。有名な店らしく、いつも行列が出来ていたので少し期待していた。この店では並んでいるときに店員が注文を聞きに来るのだが、同じ人に何回か注文を確認しにきていて嫌な予感がした。私はラーメンとヤキメシを頼んで店に入ったが、店内でもまた店員が注文を聞き直す。そうしているうちにラーメンは来たのだが、ヤキメシは食べ終わるまで来ることはなかった。正直、ラーメンの味も美味しくはないし、店員の接客レベルも相当低い。何より今のやり方に対して疑問を抱いたりより良いものにしようという意気込みが見えなかった。きっと、人気があることに胡座をかいているんだろうなって思ってしまった。たぶん二度と行くことはないだろう。

 

  転職をしようとして早一ヶ月が経とうとするが、ひとまず転職は中止にすることとした。理由は以下の2点だ。

①今の会社でキャリア形成とスキルアップが望めること

②退職理由はあるが転職理由が思いつかないこと

  私の勤めている業界はメーカーの中でも扱う製品の特性上、製品寿命はどれも長く、他業種と比較してゆっくり開発ができるようで、比較してみれば恵まれた環境にいる。仕事内容や上層部のカスっぷりには辟易するが、おそらくどこの会社も似たような環境であること、今の環境でキャリア形成・スキルアップができることを思えば、無理して他社に行く必要もないだろう。ただこうしてこのまま会社に居続けると思うとやりきれない気持ちになるのは事実であるが…。いつか辞めてやるという気持ちを胸に定年までいるんだと思うと言っていたのは前の部署の課長であった気がする。みんな同じことを思ってるんだな。

  世間は日大アメフトだったり加計問題だったりでわちゃわちゃしているようですね。日大の方は上層部が乗り切れても優秀な学生を得られなければ自然消滅とまではいかなくても衰退くらいはするだろうと思う。そして加計問題は、もはや首相の進退にまで話が進みそうだ。正直、安倍さんにはとっとと辞めてもらいたいが、次の候補はいるんだろうか。前から思っていたが、自民党の中で安倍さんを降ろせる人がいないというのはやばそう。あの人、前政権やったときから他人を信用してないんやろうなってすごい感じる。それじゃやっていけんよ。ちなみに野党はどうでもいい。誰も彼も器じゃない。

気付き?

  最近は朝起きて会社に行きたくないときには有休を使って休むことが増えた。次に付与される9月までに有休が残るかが非常に不安であるが、まあなんとかなるやろの精神で生きて行きたい。

  そして気付いたことがある。非常に今の仕事には不満があるし、やる気も全く上がらないクソみたいなモチベーションで仕事をしているのだけれど、もしかしてこの精神的不調はやるべき仕事がないからではないかと思ってしまった。要は、忙しくないのである。やる事がそもそもないから会社に行くのが面倒になっている可能性がある。そりゃ、今までも会社休みたくても休まなかったのは任せられている仕事があるからであって、それがなければ行く必要もないよなと思う。

 

  それでもモチベーションの上がる仕事がしたいのでだれか職を恵んでください。もしくは専業主夫として雇ってください。